黒の少年と白の少女 : 002
理解している彼女の理解しがたい一面
シャワーを浴びて男子寮にある自室へと戻って来たラクツは、部屋の扉を開けた瞬間に足を止めた。そのままの状態で部屋の中を軽く見回して、はあっと息を吐いた後に音もなく扉を閉める。本人としては上手く消しているつもりなのだろうが、確かに小さな気配を窓の側から感じるのだ。それでも感じられる気配の大きさを脳内で過去のものと比較してみると、その差は歴然だった。あの娘も確実に成長しているのだろう。ここにいたのが自分でなければ、おそらくはもう少し長く隠れていられただろうに。
ラクツは両肩にかけていたタオルを左手に持つと、気配を感じる場所へと一直線に歩を進めた。窓を開けた後に眼前に広がっている暗闇を見つめながら「入って来ていいぞ」と静かに呟くと、ほんのわずかな沈黙の後で1人の女の子が窓の陰から姿を現した。自分が幼い頃からよく見知っている娘だ。
「やっぱり分かっちゃった?」
そう言いながら室内へと入って来た彼女は、何ともばつの悪そうな表情をしていた。おそらくは、こちらを驚かせる算段だったのだろう。深海を思わせる蒼い瞳を持つこの娘を、ラクツは黙って見下ろしていた。本当に相変わらずだ。感情を表に出すこの娘のその性質は、最後に会った時から少しも変わっていない。
それこそ出会った頃からそうだった、この娘は誰の目にも分かる程に感情を表に出すのだ。例え初対面の人間であっても、彼女が考えていることを的中させるのはそう難しくはないことだろう。ましてや自分は彼女とつき合いが長いのだ。
ついでに言うなら彼女の肩に乗っているダケちゃんとも長いつき合いになるわけだが、彼はと言うと見事にそっぽを向いていた。こちらに向けてわざを繰り出さないところからするとおそらくは彼女が事前によく言って聞かせたのだろうが、この娘と違って何とも嫌われたものだとラクツは思った。
「結構自信はあったんだけど、流石ラクツくんだね……。あーあ、今度こそラクツくんをあっと言わせたかったのにな……」
「毎度のことだが、よく懲りないな。いいかげん諦めてもいい頃合いだとボクは思うが。ボクがお前の望むような反応を見せたことが過去に一度でもあったか、ファイツ?」
「ないよ!」
こちらの問いかけを即答したファイツは、実に不満そうに頬を膨らませた。この娘はいつもそうなのだ。いつだって分かりやすい、年相応の反応を見せてくれる。それ自体は彼女の年齢を考えれば何ら不思議ではないが、こちらを驚かせることにかなりの情熱を燃やしているという事実は正直不思議で仕方がなかった。
「だから、あたしはラクツくんを驚かせたいの!昼間だって全然驚いてくれなかったし……!あたしが逆の立場だったら、絶対驚いてたよ……っ」
「これでもボクなりに驚いたがな。何故事前に連絡を寄こさなかった?」
「だって、ラクツくんを驚かせたかったんだもん!」
彼女の言葉に、ラクツは「そうか」と言って閉口した。どうしても自分を驚かせたいらしいこの娘が、未だに無駄だとしか言えない努力をしていることに眉をひそめる。そんな暇があったら別方面に努力の矛先を向けるべきだろう。例えば今にも自分に向けて何かしらのわざを繰り出しそうなダケちゃんをもう少し躾けるとか、そちら方面にも努力して欲しいものだ。
「あ!でも、あたしだって遊んでたわけじゃないんだよ!プラズマ団の潜入捜査を終えてからも、ずっと鍛錬して来たんだもん。バトルの腕も磨いたし、知識だってずっと増えたし……。それに苦手だった気配の消し方だって、ちょっとは上手く……」
どうやらこちらの思考を読み取ったらしいファイツは意気込んでそう言ったものの、最後の方は消え入りそうな声だった。先程自分にあっさり看破されたことを思い出したのだろう。
「うう……。ラクツくんには遠く及ばないけど、あたしだってこれでも成長してるんだよ……?」
「ああ、そこまで力説しなくともいい。程度はどうあれ、お前が努力をしていたことは分かる。気配の消し方はまだ荒いが、まあ及第点だろう」
「すぐにばれちゃったのに及第点なの?そんなことを言うなんて、何だかラクツくんらしくないね」
「お前の気配だ。分かるに決まっているだろう」
この娘とはもう10年近くのつき合いになる。単純に数えても、実に人生の半分以上の時間をファイツと過ごしている計算になるわけなのだ。この条件で彼女の気配を掴めなかったら、それこそ国際警察官の名が折れる。
「……何だ、その顔は」
ただでさえ大きな瞳を更に大きく見開いて固まってしまっているファイツに、ラクツは半ば呆れながらそう告げる。紛れもなく自分と同じ国際警察官であるはずのこの娘からは、しかし自分のような鋭い視線も雰囲気も感じられない。
接するとどこか気の抜けるような、この柔らかい雰囲気はまさに彼女特有のものなのだろう。普段なら自分に声をかけられると即座に我に返るはずのこの娘は、けれどそれでも唇をポカンと半開きにしたままなお動かずに固まっていた。
「ファイツ、どうした?」
流石にその様子を訝しんだラクツは、依然として石のように固まっている娘の名前を呼んだ。昼間に会った時にファイツの顔色が少しばかり悪いことには気付いていたが、もしや体調でも崩しているというのだろうか。よくよくこの娘を観察した結果、その顔には確かに赤みが差していることにラクツは気が付いた。見たところそこまで具合が悪いようにはとても見えないのだが、実は発熱しているのかもしれないなと胸中で呟く。
「……あ。ううん、何でもないよ」
「本当か?」
「うん。ちょっとぼうっとしてただけだから」
ようやく言葉を返したファイツは、両手を胸の前でひらひらと振って見せる。どう考えても今の間は”ちょっと”どころではなかったが、彼女がそう言うなら大した問題ではないのだろう。
「そうか。お前の反応が後わずかでも遅れていたら、熱を計っていたところだったぞ。体調が悪いわけではないんだな?」
「ううん、全然平気!でも、それならもう少しぼうっとしてたら良かったな……。ちょっと残念……」
「何故だ?」
「だって、ラクツくんに熱を計ってもらえたかもしれないんだよ?ラクツくんは何とも思わないだろうけど、あたしにとってはやっぱり嬉しいことだもん……」
先程より明確に頬を染めているファイツのその反応を目の当たりにして、ラクツはまたもや嘆息する。今度は深くて長い溜息だ。
「ファイツ。お前は本当に相変わらずだな」
「当たり前だよ!だってあたし、ラクツくんが大好きなんだもん……っ!」
その言葉を言い放つと共に抱き付いて来たファイツの背中に腕を回すことなく、無言のままで彼女の頭をそっと撫でてやる。今までの経験上、自分がこうしない限りは彼女が落ち着かないことをよく知っているのだ。ぎゅうっと抱き付いているファイツの身体が小刻みに震えているその事実から、彼女が今涙を零しているであろうことをラクツは静かに悟った。それは鋭い目付きでこちらを睨んでいるダケちゃんには言うまでもなく気付いていたが、今更どうなるものでもないので放っておくことにした。
「ずっと……。ずっと会いたかった……っ。ラクツくんに会えなくて、あたしは本当に淋しかったんだよ……っ!」
「……そうか」
ファイツに抱き付かれたラクツは、しかし内心では別のことを考えていた。自分しかいないこの部屋から、女であるこの娘の声が聞こえるのはどう考えてもおかしなことだ。それなりの防音対策はされているらしいが、それでも声量は落として然るべきだろうとラクツは思った。
それを直接言わないのは、ファイツがひとしきり思いの丈をぶつけた後で、大声を出すことなくただただ静かに身体を震わせていたからだ。例えこちらの服が涙で濡れる程泣いていても、どうやらそちらに気を回す余裕はちゃんとあるらしい。
「ラクツくん……」
こちらの背中にきつく回していた腕の力を緩めたファイツは、ゆっくりと身体を離すとおずおずと見上げて来た。どうやらそれなりに落ち着いたらしいが、海を思わせるような深い蒼色の瞳からは未だに涙がぽろぽろと零れ落ちている。
「お前は本当によく泣く娘だな。思えば、出会った頃からそうだった」
幾筋の涙を指で拭ってやりながら、ラクツはこの娘と出会った頃のことを脳裏に思い浮かべていた。ファイツと自分の出会いは10年近くも前になるわけだが、未だにラクツは鮮明に憶えている。忘れられるはずもない、何しろあれはかなり衝撃的な出会いだった。
国際警察官の長官に拾われたラクツは国際警察の訓練施設でこの娘と出会ったのだけれど、彼女は自分を一目見るなり大粒の涙を零したのだ。常人より記憶力は優れているという自負はあるが、それを差し引いてもあれ程盛大に泣かれては忘れたくとも忘れられるはずもなかった。
「あれは、その……。小さい頃のことだもん……」
「今しがた盛大に涙を零していた人間が言える台詞ではないな。お前が泣く度に、何度こうして来たかボクは分からない」
「それは……っ!えっと……。ラ、ラクツくんが泣かないからだよっ!ラクツくんの分まで泣いてるんだから、つまりあたしは泣き虫じゃないの!」
「意味が分からないな。それよりファイツ、声量を落としてくれ。ここは本来お前がいていい場所ではないんだ。分かっているだろうが、お前が今いる場所は男子寮だぞ」
「う……。そんなの分かってるもん……っ」
口でこそ「分かってる」と言ったファイツは、”もう来ない”とは言わなかった。ラクツもまた、「もう来るな」と言うつもりは最初からなかった。潜入捜査の為に演技をしている都合上ファイツと落ち着いて話が出来る場所と言えばここくらいなものだし、何よりそう告げたところでこの娘が素直に聞くはずもないと理解していたからだ。
「なるべく大きな声を出さないように心がけるから。だから、また来てもいいでしょう?」
「愚問だな。ボクが拒絶したところで、どの道お前は聞く耳を持たないだろう。ファイツの好きにすればいい」
「えへへ……。ありがとう、ラクツくん!」
「別に礼を言われるようなことじゃない」
「……じゃあ、今日は朝までいてもいい?」
「それは止めてくれ」
流石に朝までいられるのは困ると、ラクツは即座に自分の発言を撤回した。すると確かに今しがたまでにこにことしていたはずのファイツは、途端に物事の全てに対して絶望したような顔になった。
「も、もしかして……。ラクツくん、恋人が出来たの……?」
風が吹けば見事にかき消されそうなくらいの極小声で、しかしはっきりとそう言い切るファイツに再び眉をひそめる。そこで”実は相部屋だから”という発想にならないのは、流石に単独行動を好む自分のことをよく理解している故なのだろうが、だからといって何故そういう結論になるのかがラクツにはまるで理解出来なかった。
「何故その結論に至ったのかはまるで理解出来ないが、それはあり得ないとだけ言っておく。一応訊くが、このボクが色恋に現を抜かすとファイツは思うのか?」
「思うよ……っ」
「何故そう思う?」
「だって、ラクツくんだもん……」
「答になっていないが」
溜息混じりに告げると、ファイツはそっと目を伏せた。時々だけれど、彼女はまるで何かを恐れるように怯えた表情を見せるのだ。”怖い”も”かわいそう”も分からない自分にとっては、演技以外ですることのない表情だ。
「女の子の目に自分がどれだけ素敵に映ってるのかを、ラクツくんはよく知らないでしょう?」
「知らない。そもそも関心がないからな」
「……ほら、やっぱり。それもだけど、ラクツくんには自分の魅力が全然分かってないんだよ。あんなに女の子達に叫ばれてるのもあんなに熱い視線を向けられてるのも、ラクツくんだけなんだよ?今日1日だけで、あたしがどれだけやきもちを妬いたと思ってるの?」
「さあ?それをボクに問われても答えようがないし、第一仕方のないことだろう。そうなるようにボクが仕向けたからな。まあ、今のところ成果は得られていないが」
「……そうなの?」
「ああ。そのことと関係があるのかどうか知らないが、ちょうど今晩新たな任務が入ってな。ボクの部屋に部下が来る手筈となっている。彼と合流次第、部屋を出る」
その言葉を言い終えるや否や、俯いていたファイツが勢いよく顔を上げた。その表情は今や驚愕の色に染まっていて、ラクツは感心すればいいのか呆れればいいのか分からなかった。本当によくもまあ、表情をころころと変える娘だと思う。
「あたし、そんなの聞いてないよ!」
「告げていないんだ、当然だろう。……そういうわけで今晩は遠慮してくれ。今晩でなくとも流石に朝までというのはこちらも困るわけだが」
「じゃあ……。せめてその部下の人が来るまで、ここにいてもいい?」
縋るようなファイツのその視線と、相も変わらずこちらを睨みつけるダケちゃんの視線をまっすぐに見返して、ラクツは無言で首を縦に振った。それくらいなら何の問題もないだろう。「ありがとう」と言ったファイツは再び満面の笑みを見せていたものの、その発言内容は少し前の話題に戻っていた。
「でも良かった、その部下の人が男の人で……。もし女の人だったら、絶対に妬いてたもん……」
「だから、ボクが色恋に現を抜かすことなど……」
「あるよ。ラクツくんだって人間だもん。きっといつか、たった1人の女の子を本気で好きになるよ」
「その根拠は?」
「ないけど、あたしの中ではそう決まってるの」
「暴論にも程があるな」
「うん」と頷いたファイツは軽く微笑んだが、その笑顔は先程のものとはどこかが違っているようにラクツには思えた。何というか、どうにもこの娘らしくない笑みだった。
「”ラクツくんが本気で好きになる子”が、あたしだったらどんなにいいだろうって……。あたしはいつも思ってるよ、ラクツくん」
「なるほど。ボクの性格を完璧に把握しているお前を好きになるというのなら、確かに楽ではあるだろうな」
「えっ……」
「何を本気にしている。これはあくまで仮定の話だ」
「うん……。でも、好きな人に真顔でそう言われたんだもん。どうしても期待しちゃうよ……」
「仮にボクがファイツ以外の女を好きになったとしても、お前はずっとボクを想い続けるんだろう?」
「うん。でも、それこそ訊くだけ野暮な質問だと思うな」
意地の悪い問いかけに即答したファイツは、まっすぐな視線をこちらに向けて来る。その視線を真正面から受け止めたラクツの脳内には、やはり疑問符が溢れ返ることとなった。
「ファイツ。何故お前はそこまでボクを想うんだ?」
「理由なんてないよ。だって、ラクツくんだもん」
その問いかけににこにこと微笑んだままそう言い切ったファイツを、ラクツは黙って見つめていた。最早お決まりになったと言ってもいいこのやり取りをするのも、これで何度目になるだろうか。
自分のことを誰よりも理解しているのはファイツだし、自分だってこの娘のことは他の誰より理解している。互いが互いの最大の理解者であることは疑いようのない事実であるはずなのに、だけどラクツは時々この娘のことが分からなくなるのだ。
こんな自分を優しいと評することもそうだが、何より熱烈な恋愛感情を向けられていることがどうにも理解出来なかった。わずかに首を傾けた自分を、ファイツはやはり柔らかく微笑んだままじっと見つめていた。