黒の少年と白の少女 : 001

あなたはあたしの世界の全て
それはそれは胸をどきどきと高鳴らせながら、ファイツはポケモントレーナーの養成校である学校の廊下を担任の先生と一緒にゆっくりと歩いていた。あまりにどきどきしていた所為なのか、身体がぶるぶると小刻みに震えていることに今更ながらに気が付いた。
なるほど、道理ですれ違う人間にじろじろとまるで値踏みされるような目線を向けられていたわけだ。単に転校生が珍しくて見られているのかと思っていたが、むしろ震えていたことが原因で人々の視線を集めていたと考えた方が自然かもしれない。よくよく考えてみれば、先生と歩いているだけで自分を転校生であると見抜ける人間がそれ程いるとも思えなかった。
つまりこの状況は他でもない自分が作り出したもので、だけどそれも仕方ないとファイツは思った。元々自分が緊張しやすい性格であることは重々理解していたし、ましてや今は隣に”彼”がいるわけでもないのだ。こんなにもどきどきと緊張してしまうのは、もう仕方のないことなのだろう。

「……ファイツ、そんなに震えて大丈夫かい?顔色も少し悪いように見えるけど、もし具合が悪いなら医務室で休んで行ってもいいんだよ。校内の施設の場所はだいたい案内したし、医務室はさっき立ち寄ったばかりだから分かるだろう?」
「は、はいっ!」

隣を歩いているチェレンに話しかけられたファイツは、はっと我に返ると同時に頷いた。そうしてしまってから、自分の言葉が彼の問いかけを肯定したように聞こえたことに気が付いて、慌てて首をぶんぶんと横に振る。確かに自分の顔色が少しばかり悪いことは否めない、何しろファイツは昨日から睡眠を取っていないのだ。
だけど、チェレンの言葉に素直に甘えるわけにもいかなかった。そんなことになれば転校初日から悪い意味で目立ってしまうし、何より医務室で休んだ分だけ彼との再会が遅れてしまうことになる。彼と再び会うことを励みに今まで頑張って来た身としては、それだけは絶対に避けたい未来だった。

「あの、ちょっと緊張してるだけですから……っ。だから、別に医務室に行かなくても大丈夫です。わざわざすみません、チェレン先生」

そう言ってぺこりと頭を下げてみせると、チェレンはホッとしたように眉根を下げて「そうか」と言った。一目見て思った通り、やっぱりこの先生はかなり優しい性格をしているらしい。担任の先生が優しいというのはありがたいとファイツは思った、無駄に厳しいよりはずっと話しかけやすいはずだ。そうは言っても、この先生に積極的に関わることは性格上あまりないだろうけれど。

「もしかしたらと思ったけど、単に緊張してただけなのか。具合が悪いわけじゃないなら良かったよ。……実は、ボクもキミと同じく緊張しているんだ。ちょっと情けないけど、何しろ新任の教師だからね。キミも学園生活に慣れるまでは大変だろうし、困ったことがあったら遠慮なく言ってくれるかい?出来る範囲で力になるからね」

やっぱり優しいことを言ってくれるチェレンに向けて「はい」と頷いたファイツは、けれど内心では再び彼のことを想っていた。どうやら新米の教師であるらしいチェレンがこの学校の成り立ちやら規則のことを色々と説明しているのが聞こえたものの、その内容もまったくと言っていい程頭に入って来なかった。
自分を何かと気にかけてくれる先生は、単純に教師としての責任感とその人柄によるものらしい親切心から色々と話しかけて来るのだろう。自分はその実この先生の話を全然聞いていないことになるわけで、その罪悪感からファイツはごめんなさいと声に出さずに謝った。本人には聞こえない謝罪をしたファイツは、再び歩きながら大好きな彼のことを想っていた。

「そういえば、ファイツ。キミの手持ちポケモンは、肩に乗っているそのタマゲタケだけなのかい?」
「あ、はい。あたしのポケモンはこのダケちゃんだけです」

チェレンに話を振られたファイツは、自分の肩に乗っているポケモンの頭を優しく撫でながら答える。自分の手持ちは幼い頃からこのタマゲタケだけなのだ、手持ちポケモンを増やそうという気には少しもなれなかった。手持ちの数が少ないことに対する弊害も特にないので、ファイツはずっとこのダケちゃんだけを大切に育てるつもりでいるのだ。

「見たところ随分懐いているね。キミがそのポケモンを大切に育てているのがよく分かるよ」
「はい。小さい頃から、ずっとこの子と一緒なんです」
「ああ、なるほど。道理でキミによく懐いているはずだ」

チェレンとの会話が途切れるや否や、ファイツの思考は勝手に明後日の方向へと飛んで行った。幼い頃からずっと一緒だったこの子と、大切な幼馴染兼好きで好きで堪らない彼に想いを馳せる。自分の世界の中心にいるのは、いつだってこのダケちゃんとあの彼だ。あの1人と1匹がいれば、基本的にファイツは満足なのだ。

(早く会いたいなあ……)

ダケちゃんとはいつだって一緒だったのだけれど、大好きな彼とはもう2年程会っていない計算になる。”任務”に集中する為に彼に連絡を取らないようにしていたとはいえ、本当は彼にずっと会いたいと思っていた。ファイツの世界の全てである男の子に早く会いたいと、心の底から思っていたのだ。
そんな彼にこの2年間会えなかったから、ファイツはずっとずっと淋しさを抱えて生きて来たのだ。彼を想わない日は1日だってありはしなかったと断言出来る。”彼断ち”をしていた自分の努力が報われる日が、きっと今日のこの日なのだろう。そう、もう少しだ。もう少しで彼に会えるのだと思うと、どうしたって嬉しくなってしまう。

「……ほら、ファイツ。ボクもだけど、キミがこれから日々を過ごす教室が見えて来たよ。キミのクラスはE組だ、75期生の仲間達の中でも特に優秀な人材が集まったクラスだよ」
「そうなんですか……。あたしが所属するE組って、いわゆる特別クラスなんでしょうか?転校生のあたしは、編入試験の結果で振り分けられたみたいですけど……」

少しだけ興味を引かれたファイツは、生徒が思い思いに過ごしている教室を廊下からざっと眺めながら尋ねてみた。彼の姿がないか確認するのはざっとで充分だ。例えどんなに人数が多かったとしても、彼の姿をすぐに見つけられる自信が自分にはある。色々と優秀な彼のことだ、学校の成績も優秀であるに違いない。
すなわち、彼の所属するクラスはE組であるはずなのだ。万が一彼が自分の在籍するクラスにいなかったらどうしようという不安がずっと渦巻いていたわけなのだけれど、見た感じでは彼の姿は見当たらなかった。ああ良かった、C組にも彼の姿はない。次のクラスにも彼の姿がなければ、晴れて自分は彼と一緒のクラスに在籍することになるのだ。是非ともそうなって欲しいと、ファイツは強く願った。

「明確にそういう枠があるんじゃないんだけど、今年は何故かそうなったらしいんだ。成績が学年トップの男子もE組だしね。何でも、これがまた色々とすごい生徒らしいんだ。ボクも負けないように頑張らないと……。……ああ、こんな話はキミには関係ないか」

最後の方は独り言のように聞こえたチェレンの言葉に、ファイツは首を横に振りたかった。自分に関係ないなんてとんでもない、チェレンが言う”すごい生徒”というのは彼に決まっている。彼のことならどんなに小さなことでも知りたいファイツだ。正直言って校則なんかよりよっぽど彼の話を聞きたかったのだけれど、もしそんなことをしたら絶対に不審がられることは目に見えている。彼の話がここで聞けないのはものすごく残念な気もしたが、どうせすぐに会えるのだからいいとすぐに思い直した。D組にも彼の姿は確認出来なかったからだ。
つまり、自分は彼と一緒のクラスになったということになる。これまで頑張って来た自分への最高のご褒美なんだと思うと、ファイツは自然と笑顔になった。「ここがE組だよ」と言ったチェレンの声を聞き流したファイツは、強過ぎる期待を込めて自分が在籍する教室を廊下から一瞥した。

「…………え?」

自分の見間違いかもしれないと思ったファイツは改めて教室を眺めてみたが、何度見ても結果は変わらなかった。何度願っても、彼の姿はE組の教室にはなかったのだ。その現実を直視して、ファイツは思わず俯きがちになって立ち竦んだ。”彼の姿が教室のどこにもない”という残酷な事実を突き付けられて、身体がぶるぶると大きく震える。絶対にいるはずだと信じていたのに、どうして?……どうして彼がここにいないのだろう?
大き過ぎる絶望感に囚われたファイツには、怪訝そうに自分に何かを言ったチェレンの声など碌に聞こえていなかった。立ち竦んだまま一歩も動かない自分を心配したのだろうが、そんなことはどうでもいいと思った。クラスメイト達に視線を向けられていることにも気付いたけれど、それすら最早どうでもいいと思えた。
ファイツにとって一番大事なのは、自分が所属するクラスに彼が在籍していることなのだ。彼に会いたくてもう仕方なくて、だから自分はこの学校に行くことを決めたのに。自分の世界の中心にいる彼にこの学校で再び会うことを夢見て、それだけを励みに今まで頑張って来たというのに。こんなのってないとファイツは震える唇で呟いた。自分は今、こんなに明るい場所にいるというのに。だけど彼の姿がないというだけで、何だか目の前が真っ暗になったような気がした。

「……っ!」

相も変わらず立ち尽くしていたファイツは、だけど弾かれたように顔を上げた。向こうの方から聞こえて来たその声を聞き取ると同時に心臓が大きく高鳴る。一筋の希望に縋るように顔を勢いよく横に向けた結果、その拍子に肩に乗っていたダケちゃんが音もなく滑り落ちることとなった。慌てて肩に飛び乗って来たダケちゃんに心の中でごめんねと謝ったのも束の間、ファイツは息もすることも忘れてある一点を見つめていた。ああ、あの人は間違いなく彼だ。大好きで堪らない彼の姿を、やっと見つけたのだ。

(ラクツくん……)

大好きな彼の名前を、だけどファイツは声に出さずに呟いた。視界が涙で滲んでいることに気付いて、慌てて目尻をそっと拭った。感極まっているこの状況下で彼の名前を呼ばずに済んだのは、再会した時には勢い余ってラクツくんの名前を呼ばないようにしなくちゃと昨晩何度もイメージトレーニングをしたおかげなのだろう。
こちらに向かって歩いて来る自分の大好きなラクツが一瞬だけ足を止めたことに気付いて、ファイツはますます嬉しくなった。どうやら彼も自分の存在に気付いたらしい。ちなみに彼の両隣には見知らぬ男子が2人いたのだけれど、例の如くファイツは彼だけを見つめていた。
そう、ラクツ以外の男の子なんて、自分にとっては割とどうでもいい存在なのだ。ほんのわずかに目を見開いたラクツのその表情は実に珍しくて、ちょっとだけ嬉しくなると同時に何だか味気ないと思った。ラクツには何も言わずに来たのだから、もう少しくらいは驚いてくれてもいいだろうに。

(ああ、でもやっぱり嬉しいな……。本物のラクツくんだよ……っ)

ちょっとだけ彼の反応に不満を感じて、だけどそれも些細なことだと考え直す。自分のすぐ近くに、想ってやまないラクツが確かにいるのだ。夢にまで見た、正真正銘のラクツ本人だ。ラクツくんに会えたんだからそれでいいでしょうと言い聞かせたファイツは、目の前までやって来た想い人をじっと見つめていた。チェレンがどうやら遅刻したらしいラクツに何かを言っているのは聞こえていたけれど、その言葉はやっぱり頭に入って来なかった。

「キミって転校生の子だよね?ボクはラクツって言うんだけど、キミの名前は何て言うの?」
「ふえっ!?」

ファイツは声にならない叫びを上げたが、それは説教を聞き終えたらしい彼に話しかけられたことによるものではなかった。正確にはそれも理由に含むのだけれど、今のラクツの態度が自分が知る彼のそれとはまるで違っていたことに何より驚いたのだ。大いに困惑しながらも、ファイツは自分の名前を告げる。知り尽くしている人物に改めて名乗るというのは実に奇妙な気分だった。彼のことはわざわざ紹介されずともよく理解しているのだけれど、それを今言うことは流石に出来ない。

「ファイツちゃん、か。……うん、これからよろしくね!」
「は、はい……」

ぎこちなく頷いたファイツの頭には大いに疑問が浮かんだ。”ファイツちゃん”って呼び方は何?”キミ”って呼び方も何?それに何より、その違和感しか感じない話し方はいったい何なのだろう?彼の背中を見つめながら、ファイツはひたすら困惑していた。チェレンに大丈夫かと問われたことは気付いていたけれど、困惑のあまり足が動かなかった。

「どうしたの、ファイツちゃん。早く教室に入りなよ!」

見兼ねたらしいラクツが、振り返って手を差し出して来る。そんな彼に少しだけ物言いたげな視線を送ったファイツは、だけど何も言わずにその手を取った。つき合いが長いので、幼馴染であるラクツとはある程度目と目で会話が出来るのだ。どうやら彼は他の人間の前ではその話し方で通すつもりらしい。自分の手を音もなく放した大好きな彼の背中に向かって、ファイツは後でたっぷり説明してもらうからねと呟いた。