闇を照らす光 : 006

きらきらひかる
名前、くれぐれも凶悪犯には気を付けるのよ!……それじゃバイバイ、皆!また来週ね!!」
「うん!杏子も気を付けてね」

片手を上げながら教室を出て行った幼馴染に向かって、名前も手を振り返す。どうやら余程急いでいるのだろう。杏子の姿は、帰宅する生徒達の波にのまれてあっという間に見えなくなった。

(行っちゃった……。きっと、すごく大事な用なんだろうなあ……)

開店したばかりのハンバーガーショップであるバーガーワールドに幼馴染を誘ったところ、「その日は用事があるから」と丁重に断られてしまった記憶が蘇る。帰って行く生徒達の姿を教室の窓から見下ろした名前は、そっと息を吐き出した。出来れば杏子とも一緒にハンバーガーを食べたいと思っていたのに、断られてしまったことが残念でならなかった。

「それで、今日はこの後どうしようか?この辺に脱獄した凶悪犯がうろついてるってニュースでやってたし、まっすぐ帰る?」
「何だよ、びびってんのかよ遊戯!根性ねえなあ!」
「で、でも……。拳銃を持ってるみたいだし……っ」
「拳銃なんてのはよー、撃たれたとしてもさっと避けちまえばいいのよ!それか、やられる前にやるかだな!」

そう言いながら城之内は拳を前に突き出したが、名前は彼の意見にとても賛同する気にはなれなかった。万が一銃口を向けられたとしても、臆病な自分のことだ。何も出来ずにただただその場に立ち尽くしているに違いない。

「ま、とにかくだ!すげえ腹減ってるわけだし、オレとしては買い食いしてえんだけどよー。人が多そうなところなら寄ってもいいだろ?……ただまあ、バーガーワールドはあんまし良くねえみたいだけどな!」
名前、杏子がそう言ってたんだって?」
「うん……。あのね、美味しくないんだって」

バーガーワールドに行かない?と杏子を誘った直後のことだった。「お腹を壊した人が続出」とか、「むちゃくちゃマズイ」だとか、「近々潰れそうな飲食店候補NO.1」だとか。こちらが何も言わないうちに杏子に早口で店の悪評を捲し立てられた名前は、バーガーワールドだけは行かないことを約束させられてしまったのだ。話を聞いていた遊戯が、おかしいと首を捻る。

「変だな~……。美味しいって聞いてたのに……」
「もしかしたら、杏子もそこのハンバーガーを食べたことがあるのかも……。ほら、杏子だってハンバーガー好きだし……」
「遊戯、名前……。杏子のやつ、妙につき合い悪いと思わねーか?」

頬杖をつきながらぼそりと呟いた城之内の声で、バーガーワールドのことを考えていた名前は我に返った。確かに彼の言う通りだった。昼休みこそ色々とお喋りするものの、放課後になると杏子はさっさと帰ってしまうのだ。

「えっと……。言われてみればそうかも……。最近一緒に帰ってない、よね……?」
「そういえば、確かに城之内くんの言う通りだよね。遊びに誘っても用事があるって言われちゃうもんね……。せっかく最新の機器が入ってるゲームセンターを見つけたのになー……」
「やっぱりお前らもそう思うだろ?……で、これはオレの推測なんだけどよー。杏子のやつ、放課後に援助交際やってんじゃねえのかな」
「え……。ええええええっ!?」

顔どころか耳まで真っ赤にした名前は、素っ頓狂な声を上げた。思わず教室中をきょろきょろと見回して、意味もなく両手で顔を覆う。援助交際の言葉の意味は知っているけれど、当たり前だがこんな時間から大っぴらに口に出来る話題ではないわけで。出来ることなら耳も塞ぎたいと名前は思った。そっち方面の話題は、名前にとってはかなりの苦手分野だった。

「な、何言ってるんだよ城之内くん!杏子がそんなことをするわけないじゃないか!」
「そ、そ、そうだよ……っ!あ、杏子はそんなことしないもん……っ!」

自分と同じように顔を真っ赤にして反論する遊戯に、わたわたと腕を動かしながら加勢する。城之内はどうやら疑っているみたいだけれど、杏子が援助交際をしているなんて絶対にあるはずがない。

「お、何だよ遊戯。顔が真っ赤じゃねえか。さてはお前……」
「ち、違うよ!ボク、そんなんじゃないってば!」
「はは、冗談だって!……と……。名前もすげえ顔が赤いぜ。遊戯と同じくらいだな」
「じょ、城之内くんが変なこと言うからだよ……っ!」

とうとう涙目になった名前は、爆弾発言を口にした城之内を弱々しく睨みつけた。昼間からこういう話題を耳にして平然としていられる程、自分は人間が出来ていないのだ。

「悪い悪い。……でもよー、オレはマジでそう思ってるんだぜー!だからよ、杏子の跡をつけてみねえか?急げば今からでも間に合うだろうしな!」
「あ……。杏子を尾行、するの……!?」
「おうよ!お前らだって、杏子が何やってんのか気になるだろ?」

城之内の言葉で、名前と遊戯は顔を見合わせた。尾行はいけないことだと頭では分かっているのに、だけどどういうわけか首を横に振る気にはどうしてもなれなかった。

「分かった。ボク、城之内くんと一緒に行くよ」
「よっしゃー!流石は遊戯だぜ!」
「ゆ、遊戯……!?遊戯はそれでいいの?」
「うん……。杏子には悪いけど、すごく気になって来ちゃって……。名前はどうする?無理してボク達につき合わなくてもいいよ」

沈黙の後で意を決したように頷いた遊戯を、名前はまじまじと見つめた。いくら何でも援助交際をしているとは思わないけれど、杏子が放課後に何かをしているらしいのは事実なのだ。そのことが気にならないと言えば真っ赤な嘘になる。それに、町のどこかに隠れているらしい凶悪犯のこともあった。刑事ドラマでしか縁のない拳銃を持っているだなんて怖過ぎる。杏子には申し訳ないけれど、1人で帰るより皆で帰る方が安全に決まっている……。

「…………」

兄が、友達が、揃って自分を見つめている。暫しの沈黙の後で、揺れ動いていた心の天秤がその傾きを増した。兄と同じくこくんと頷いた名前は、そうと決まればと脱兎の如く教室を出て行った2人の後を小走りで追いかけた。

* * *

一念発起して杏子を尾行することを決めた名前は、バーガーワールドの店内で身体を縮こませていた。店の制服姿で自分達を見下ろす杏子の顔は、誰がどう見てもアルバイトの真っ最中で、ついでに誰がどう見ても怒り心頭ものだった。アルバイトは校則で禁止されている。バレたら即退学だ。遊戯も城之内も杏子の身体から溢れる怒りのオーラに押されているのか、いつもよりずっと口数が少なかった。

「当店のハンバーガーは自慢のケチャップをた~っぷり付けて召し上がってくださいね~」

それは怒っていることを隠しもしない杏子が、人数分のハンバーガーにケチャップをかけながらそう言った。”ちくったら殺ス”という文字をケチャップで書いた杏子の器用さに感心するどころではない。宝物である左腕のブレスレットに手を添えながら顔をひいっと引きつらせた名前は、鼻を鳴らして踵を返した幼馴染の背中に声を投げかけた。自分は大切な幼馴染に悪いことをしたのだ。例え幼馴染がアルバイト中だろうが心底怒っていようが、今謝らないと一生杏子に謝れないような気がしてならなかったのだ。

「ほ、本当にごめんね杏子……っ。あたし、杏子の様子が気になって……っ!」
「ま、私がこそこそしてたのは確かだしねー……。こうしてバイトしてるのバレちゃったし、別にこれ以上隠すこともないけどさー……」

頭にリボンを付けた杏子が、背中を向けたままでそう言った。こちらからは幼馴染の表情は見えないけれど、聞こえて来る声は少なくともハンバーガーにケチャップをかけた時よりはずっと柔らかい声色だった。

「私、お金貯めてんだ!高校を卒業したら、アメリカでダンスの勉強するの!……夢なんだ、笑うなよな!」

振り返りざまにそう続けた杏子は、ウインクをすると綺麗に笑った。きらきらと輝いている幼馴染の姿をまじまじと見つめた名前は、大きく頷いた。幼馴染が大きな夢を抱いていたことは初耳だったけれど、杏子なら絶対に叶えられると強く思った。

「頑張ってね、杏子!杏子なら絶対成功するよ!」
「…………」

女子にしては背が高い杏子が、無言で身を屈めた。小柄な自分の為に目線を合わせてくれていることに感謝しつつも、名前は懸命に言葉を紡いだ。杏子は自分にとって大切な親友兼幼馴染なのだ。いくら自分が悪いとはいえ、杏子に嫌われるのは絶対に嫌だった。

「あ、あの……。こっそり跡をつけちゃってごめんね……。杏子、あたし……っ!」
「もういいって、名前。悪気があったわけじゃないんだろうし、赦してあげる!……ほら、名前は可愛いんだから!そんな泣きそうな顔してないでさ、笑顔笑顔!」
「う、うん……っ!」

目をごしごしと擦った名前は、杏子に言われた通りに笑ってみせた。幼馴染はこんな自分のことを可愛いなんて言ってくれたけれど、杏子の方がずっと可愛いと名前は思っている。そのことを告げると、輝かんばかりの笑顔を見せた杏子は恥ずかしそうに「ないない」と手を振った。

「可愛くなんかないって。私、男勝りだって言われてるのよ?ダンスが好きだって言うと、皆に驚かれるんだから。まったく失礼しちゃうわよね!」
「あ、そうだ!ダンス!……あたしは杏子のこと、応援するからね!」
「ありがと、名前!」
「ゆ、遊戯も城之内くんも、杏子の夢を笑ったりしないよね?そんな酷いこと、絶対にしないよね!?」
「もちろんだよ!ボクだって絶対笑うもんか!」

そう言い切った遊戯は、コホンと小さな咳払いをした。彷徨わせていた目をまっすぐに幼馴染に向ける兄を、名前は固唾をのんで見つめていた。遊戯は杏子に謝ろうとしているのだ。

「……その、ごめんよ杏子……。ボクも杏子が、その……。し、心配で……」
「だからもういいってば!……ほら、遊戯もクヨクヨしない!男だろ!」
「う、うん!……あの、城之内くんは……」
「杏子、安心しろよな!オレらはお前の夢を笑わねえし、チクったりもしねえからよ!チクったらここのハンバーガー、1万個食ってやらあ!男・城之内!一生の約束だぜ!……それと、悪かったな。2人を焚き付けたのはこのオレだ」

親指を立てた後でぼそりと最後の台詞を付け加えた城之内に対して、杏子はまたしても綺麗に笑った。まるで太陽が輝かんばかりの笑顔を見せる幼馴染を、名前は半ば放心状態で見つめていた。人間がこんなにも綺麗に笑える生き物だということを、今初めて知ったような気さえした。

「でもよー。この店はこんなケチャップまみれのハンバーガーを客に出しといて金取んのかよー!酷え店だぜー!」
「じょ、城之内くん……っ!」
「安心しな!私のおごりよ!」
「やったー!ありがとう、杏子!」
「ありがとう!」
「おー!サンキュー杏子!お前のことはでしゃばりだと思ってたんだけどよー、ちょっと見直したぜ!」
「もう、城之内ってば調子いいんだから!……じゃあ私、接客に戻るから。また後でね!」

ひらひらと手を振る杏子に手を振り返した名前は、注文した照り焼きバーガーを頬張った。ひと口食べた瞬間に美味しさが口内に広がる、確かに評判通りの美味しいハンバーガーだ。杏子を怒らせてしまった所為でケチャップの酸味が強いが、同時に感じるまろやかなたれの味がその酸味をかなり打ち消していた。

「美味しい!すっごく美味しいね、このハンバーガー!」
「うん!ボク、自分のお金でもう1個頼んじゃおうかな!」
「確かに美味えぜ、こりゃ当分は潰れそうにねえな!客が大勢入ってるのにも納得ってもんだぜー!」

総合的に言ってとても美味しいハンバーガーを2人と一緒に夢中になって食べていた名前だったが、楽しい時間は長くは続かなかった。突如として絹を裂くような悲鳴が聞こえて来たことでハンバーガーに向けていた顔をばっと跳ね上げた名前の目に、衝撃的な光景が飛び込んで来た。杏子が男に銃を突き付けられた状態で口を覆われている。まさに絶体絶命の状況だ。

「おらおらああ!騒ぐとこの女ぶっ殺すぜええ!!どいつもこいつも騒ぐんじゃねえ!」
「杏子!」
「くそ、例の凶悪犯かよ!」
「あ、杏子……っ」
「さあて!これからオレが要求する物をこのテーブルまで運んで来い!安心しな、腹に溜まるもんが溜まればおとなしく出て行ってやるからよ!どいつにするか……」

名前は顔を歪めて拳銃を突き付けられている幼馴染を見据えた。脱獄囚の指示で頭に付けていたリボンで目隠しをさせられた杏子の身体は、ここからでも分かるくらいにかたかたと震えている。ここでこうして見ているだけでも堪らなく怖いのだ。実際に銃口を向けられている杏子の恐怖は、いったいどれ程のものだろう。杏子は幼い頃からの大切な親友だ。助けたいと心から思ったが、だけど自分にいったい何が出来ると言うのだろうか。いつかのように無力な自分を呪った名前は、にやにやと笑いながら店内を見回している脱獄囚を泣きそうになりながら睨みつけた。

「おら、そこの変な髪形した気の弱そうなチビ……。……いや、チビの隣にいる黒髪の女!お前だ!」
「……!」
「後のやつは全員床に伏せて目を瞑ってろ!一歩でも動くやつがいたら、人質の女はぶっ殺すぞ!……おい、そこの女!酒とタバコを早く持って来い!」

脱獄囚に怒鳴られた名前は、凍り付いたように動かない足を懸命に動かした。要求に従わないと杏子の命が危ないのだ、何が何でも言う通りにしなければ。かたかたと音が鳴るくらいに激しく震え出した手でお酒とタバコを乗せたお盆を必死に支えて、ソファーに座っている脱獄囚の元へと歩み寄る。隣で座らされていた杏子が立ち上がったのは、名前がテーブルの端に差しかかった瞬間だった。

名前……名前でしょ!?来ちゃダメ、名前!危ないから!」
「うるせえ、黙ってろ!」

右頬を叩かれた杏子が、ソファーに声もなく倒れ込む。親友が傷付いたことで頭が真っ白になった名前は、呆然とその場に立ち尽くしていた。無力な自分に出来るのは、幼馴染が早く解放されますようにとひたすら願うことだけだ。

「おら!お前、酒とタバコを早く置け!……聞こえねえのか!!」
「は、はい……」

業を煮やしたのか、男の怒号が店中に響き渡る。震える唇でそう返した名前は、しかしその場から動くことはなかった。単純に恐怖に駆られたから、というだけではなかった。後ろにいる誰かに肩を掴まれていて、動こうにも動けなかったのだ。

名前、お前はここで待ってろ。……オレが行く」

耳に聞こえて来た声は、それは静かな声だった。その瞬間に”誰”が自分を引き留めたのかを察した名前は、瞳を大きく見開いた。その場に立ち尽くしたまま、銃を持った脱獄囚に向かって悠然と歩いていく兄の横顔を見つめる。

(”遊戯”だ……)

普段は紫色であるはずの兄の瞳は赤く染まっていた。あの夜に出会った”遊戯”だ。どうして今になって現れたのだろう?呆然としていた所為で、酒とタバコを乗せたお盆を兄が代わりに持っていることに名前は数秒遅れで気が付いた。

「よくもオレの大切な杏子を酷い目に遭わせたな……。だが、オレがこの場にいたのが運の尽きだ」

近くにいた自分にしか聞こえないであろう極々小さな声で、”遊戯”がそう呟いた。その呟きは静かなものだった。だけど、底冷えのするような冷たい声だった。脱獄囚の怒号よりずっと静かな声を発した”遊戯”が心の底から怒っていることを察した名前だったが、しかし一切の恐怖を感じることはなかった。いつもの遊戯とは違うけれど、それでも”遊戯”が自分の兄であることには変わりない。”遊戯”なら、絶対に杏子を助けてくれるはずだ。そんな確信を抱いた名前は、黙って”遊戯”を見送った。兄と幼馴染が無事に帰って来ますようにと、ただそれだけを一心に祈りながら。