闇を照らす光 : 007
恋の種
強盗によって目隠しをさせられた杏子は、恐怖に襲われていた。ただアルバイトをしていただけなのに、どうしてこんなことになったのだろう。どうして自分は、男に銃を突き付けられているのだろう。刑務所から逃げた脱獄犯がいることは分かっていたのに、どうしてまっすぐ家に帰らなかったのだろう……。(助けて……。誰か、助けて……!)
幼い頃から気が強いと周りに言われて来た杏子だ。いやらしい手付きで身体を触って来た痴漢を、グーで殴った後で警察に突き出したこともある。だけどそんな自分でも、流石にこの状況は怖かった。およそ馴染みのない銃を突き付けられている所為かもしれない。全身を襲う”怖い”という気持ちから肩をかたかたと震わせていた杏子は、はっと息を飲んだ。誰かが席に着く気配がしたのだ。
「この娘の代わりに、お望みの物を持って来たぜ」
「な、何だてめえは!誰が席に着いていいと言った!この銃が見えねえのか!?」
「なあに……。オレがあんたの遊び相手になってやろうと思ってね。ただ酒を飲むのもつまらないだろう?」
暗闇の中で聞こえて来たその声は、怒鳴り散らす男とは対照的に静かで、同時に落ち着き払ったものだった。この状況で落ち着いていられることもそうだが、何よりも杏子を驚かせたのは別のことだった。”その人物”が発した声は、杏子の身近な人間の声によく似ていたのだ。
(遊戯……!?)
一瞬幼馴染の顔が脳裏に浮かんで、けれど杏子はすぐその考えを否定した。遊戯のことはよく知っている。遊戯は良く言えば優しくて、悪く言えばちょっと頼りない男の子だ。対して”その人物”の声色は、頼りなさなど微塵も感じさせないものだった。ちょっと声を聞いただけで分かるくらい、自信に満ち溢れていると言っても過言ではない程に堂々としている。そんな雰囲気を出せる声の主が、遊戯であるはずがない。
(……やっぱり、遊戯じゃない。声は似ているけど、あの人は遊戯じゃないわ)
そう結論付けた杏子は、顔が分からない”彼”に思いを馳せた。テーブルを挟んだ向かい側に座っているであろう人物は、いったいどこの誰なのだろうか。目隠しをしている現状が、もどかしくて仕方がなかった。
「……さあ、ゲームの時間だ」
「ゲームねえ。少しばかり興味はあるな」
「ただし、ただのゲームじゃない。闇のゲーム……。命懸けのゲームだ。ルールを破った人間には、厳しい罰が待っている」
「面白そうじゃねえか……。昔から賭け事には目がねえんだ。ルールを聞きたいねえ」
生身で銃を持っている強盗に向き合っているに違いない”彼”は、驚くべきことにこの状況でゲームをすると言う。相も変わらず落ち着いている”彼”の声を聞いた杏子は、目隠しにしているリボンの下で瞳を見開いた。
(誰だか分からないけど……。銃を持っている男に立ち向かうなんて無茶よ……!)
誰かに助けを求めていた杏子の胸中は、嬉しい反面複雑だった。まさか、本当にゲームを楽しむ為にここに来たわけはないだろう。あの人は、きっと自分を助けようとしてくれているのだ。多分ゲーム中に隙を突いて銃を奪い取るつもりなのだろうが、無茶にも程があると杏子は思った。誰かに助けて欲しいと願ったのは確かだが、自分の代わりに銃を向けられて、あまつさえ撃たれる人間が出る結果になったとしたら最悪だ。出来ることなら”彼”を止めたい。けれど、この状況で自分に出来ることがあるとも思えなかった。強盗の隣で身を固くさせた杏子は、”彼”の無事を祈った。
「ルールはたった1つ。それは、”10本の指の中で、決められた指しか動かしてはならない”という制約さ。どの指を選ぶかは互いの自由、その選んだ指だけで行動する。……さあ、あんたはどの指を選ぶ?」
「それなら当然、オレはこの人差し指を選ぶね。銃の引き金を引く為の人差し指をな」
「分かった。オレは、この指を選ぶ。……親指だ」
どこまでも落ち着き払っている”彼”が選んだのは、何と親指だった。杏子の頭にはいくつもの疑問符が浮かぶ。どう転んでも、強盗の方が有利だとしか思えない選択だ。親指でいったい何が出来ると言うのだろう?自分には”彼”の考えがまるで分からなかったが、それは強盗の方も同じだったらしい。「何考えてやがるんだ」と呟いた強盗の声が聞こえて、杏子はごくりと唾を飲み込んだ。
「ゲームスタートの合図をしたら、何をしようと自由だ。もちろん、引き金を引くこともね。……それじゃあ行くぜ、ゲームスタートだ」
「はっ、この一瞬でゲームオーバーだ!」
暗闇以外何も見えない中でも、杏子には目の前の光景がはっきりと見て取れた。勇敢にも自分を助けようとしてくれた”彼”は今この瞬間、命の危機に瀕しているに違いない。恐怖で息をすることも忘れた杏子の耳に響いたのは、カチッという小さな音だった。何の音だろうか。
「ああ……。忘れてたぜ、そういやタバコがまだだったな。冥土の土産だ。最後にその親指でオレのタバコに火を付けさせてやる。その後でてめえを殺してやるぜ!」
強盗の言葉で疑問は解けたものの、危険が去ったわけではないことは明らかだった。”彼”の寿命がほんのわずかに伸びただけだ。せいぜい10数秒、これでは時間稼ぎにもなりはしないだろう。まさに万事休すでしかなくて、杏子はぎゅっと目を瞑った。
「このライター……、やるよ。あの世に持って行きな」
「な……。て、てめえ!」
「その酒はロシア製のウオッカ……。アルコール度数は90%だ。試しに銃を撃ってみろよ、反動で確実にライターは落ちるぜ。そうなったらどうなるか……。クク、あんたにも分かるだろう?」
”彼”、つまり”遊戯”が強盗が動けなくなることを見越して銃を持った手の上に火が点いたイターを置いたことを、杏子は知らない。そして今やグラスから溢れた酒が強盗の衣服と床を濡らしているわけなのだが、それも知らない杏子はわけも分からず固まるばかりだった。
「……やはりルールを守ることが出来なかったようだな。”決められた指以外、決して動かしてはならない”。そのルールを破ったあんたには、運命の罰ゲームを受けてもらうぜ」
その言葉を聞いた瞬間、杏子の真っ暗な視界に閃光が迸った。言葉では言い表せない何かが起こったのだ。
「杏子。……もう大丈夫だ」
「あ……」
フリーズしていた杏子は、名前を呼ばれてはっと我に返った。自分を助けてくれた”彼”が、すぐ近くにいることを悟る。杏子は目隠しを取ろうとして、けれどその手をしっかりと掴まれたことで小さく声を漏らした。
「行くぞ、杏子」
”彼”に手を引かれて歩き出した杏子の心臓は、どきどきと高鳴っていた。どうやら助かったらしいという事実もそうだが、それよりも彼の正体が気になって仕方がなかった。いったいどこの誰が助けてくれたのだろう?
(もしかして、私を知ってる人なの……?)
気付けば、手は放されていた。それを名残惜しいと思いつつも、”彼”が自分の名前を呼んだことが引っかかった杏子は目隠しを取ろうとした。今こそ顔を見るチャンスだ。だけど、目隠し代わりのリボンは上手く解けてくれなかった。「固く結ばないと撃つ」と脅されたことが災いしたのだ。おまけに手が震えている所為で、結び目1つ解くのにすら驚く程の時間がかかった。
「杏子、大丈夫!?今解くから、ちょっと待ってて……!」
そう言ってくれた名前のおかげで目隠しから解放された杏子が一番最初に見たものは、瞳から大粒の涙を零している幼馴染の顔だった。幼馴染というよりは、妹のように思っていると言った方が正しいけれど。
「名前……。……ちょっと、どうしたのよ」
「杏子、どこも怪我してないよね!?大丈夫だよね!?」
杏子は、自分に抱き付いて泣きじゃくる幼馴染をよしよしと宥めた。名前があまりにもわんわんと泣いていなかったら、自分だって大泣きしていたに違いないと思った。
「ごめんなさい、あたしばっかり泣いて……。杏子の方がずっとずっと怖かったはずなのに……。そ、それにあたしは何も出来なくて、ただ震えてるだけだったし……」
「もう、何謝ってるのよ名前!あの状況じゃ誰だってそうなるわよ。……あ、そういえばあの男は!?あいつ、拳銃持ってるのよ!警察呼んで、早く逃げなきゃ……!……って、あれ?」
憎き強盗犯を睨みつけた杏子は呆気に取られた。いるにはいたのだが、どうしてか頭を抱えてその場にのたうち回るばかりで、銃の存在など忘れてしまったかのように悲鳴を上げ続けていたのだ。「この火を消してくれ」という大声が聞こえたが、誰がどう見ても男の身体は火に包まれてなどいなかった。一発殴ってやりたいというのが本音だが、流石にあの状態の男に近寄りたくはない。なおも叫び続ける男を遠くから眺めていた杏子は、困惑している幼馴染と顔を見合わせた。
「何よ、あれ。……いったいどうしちゃったの?」
「あ、あたしにも全然分からなくて……。もしかしたら、幻でも見てるのかも……」
「あー!それ、きっと麻薬よ!ほら、この前の授業で先生が言ってたじゃない。薬物をやると幻覚を見ることがあるって!……あいつ、麻薬をやってたんだわ!絶対そうよ!」
「……そう、なのかなあ……」
「杏子!無事だったか!名前も怪我してねえよな!」
息せき切ってやって来た城之内に、杏子はにっこりと笑いかけた。普段は城之内の顔を見たところで何の感情も湧かないのだけれど、この時ばかりは嬉しかった。そうだ、自分は助かったのだ。その実感が今になって湧いて来て、杏子ははあっと大きな息を吐いた。
「とりあえず警察呼んでおいたぜ、すぐ来るってよ」
「ナイス、城之内!」
「あ……。ありがとう、城之内くん……っ」
「それにしてもよー、いったい何があったんだ?オレからは全然見えなかったぜ。前のやつのケツがでかくなきゃ、オレにだって見えたのによー」
そう言ってぼやく城之内をぼんやりと眺めていた杏子は、そっと名前を呼ばれて顔を動かした。もう1人の幼馴染である遊戯が、自分を見上げていた。
「杏子、大丈夫!?よく無事だったね!」
「遊戯……」
遊戯の顔を見た杏子は、慌ててきょろきょろと辺りを見回した。そうだ、自分を助けてくれたあの人はどこに行ってしまったのだろう。けれど何度見回してもそれらしき人はいなくて、がっくりと肩を落とす。きっと自分が談笑している間に、”あの人”は外に出てしまったのだろう。
「杏子、どうしたの?」
「ううん、何でもないの」
杏子は気を取り直して幼馴染と話す傍らで、”彼”のことを想った。声と手の温かさしか知らないけれど、それでもこんなにも胸が高鳴るのは初めてのことだった。”ゲームの時間だ”と言った”彼”の声が何度も何度も蘇って、思わず顔を赤らめる。真崎杏子・15歳。これまでの人生でただの一度だって恋をして来なかった杏子は、今日のこの日に初めての恋を知った。