闇を照らす光 : 004

大切な存在
牛尾とのゲームで使った跳び箱を片付け終えた”遊戯”は、体育倉庫の中で深い溜息をついた。怖がりであるはずの名前が、真夜中の学校に来るなんて思いもしなかったのだ。それだけで終わるならばまだ良かった。しかしその後で妹が取った行動は、自分の予想を遥かに超えるものだった。

「まさか、名前が飛び出して来るとはな。……迂闊だったぜ」

記憶に新しい先程の光景を脳裏に思い浮かべて、”遊戯”は眉間に皺を作った。それこそ気絶する程に怖かっただろうに、名前は自分を庇う為にナイフの前に飛び出した。おそらくは反射的に飛び出したであろう妹が刺されなかったのは、単に幸運が重なった結果に過ぎないと”遊戯”は思っている。実際、あれは本当に危ないところだったのだ。結果的には額に浮かんだ目に怖気付いてくれたから良かったようなものの、牛尾が自分に対して向けた殺意は紛れもなく本物だった。名前の身体を抱き寄せるのがもう少し遅れていたら、きっと名前は……。

「…………」

最悪の光景を想像した”遊戯”は、また息を吐くと踵を返した。自らの行動を省みるのは後でいくらでも出来る、今は名前の元に早く向かわなければ。体育倉庫から出た”遊戯”は真夜中の校庭を遠目から眺めて、そして自分の目を疑った。あの木々の下で待っているはずの名前の姿がどこにも見当たらないのだ。

名前!」

まさか、名前の身に何かが起こったのだろうか。そう思うと同時に”遊戯”は駆け出した。跳び箱を一緒に運ぶと言ってくれた妹の申し出を断って、待っていろと告げたのは他でもない自分だ。例え待たせることになっても重い跳び箱を運ぶよりはいいだろうと判断しただけのことなのだが、もしかしたらそれは間違っていたのかもしれない。体育倉庫から校庭までのそう遠くない距離を走りながら、”遊戯”は自らの選択を後悔した。例えば単純に見間違えただけとか、場所を移動しただけならばそれでいい。万が一名前が何者かに危害を加えられたなんてことになったら、それは紛れもなく兄である自分の責任だ。

名前……」

足を止めて一目で見渡せる場所から校庭全体を見回した”遊戯”は、深い息を吐き出した。今度のそれは安堵の溜息だ。「ここで待っていろ」と言い付けた場所でこそなかったものの、それでも確かに名前の姿が暗がりの中で確認出来た。そして同時に、地面に座り込んでいる妹もこちらの存在に気付いたらしい。長い黒髪を揺らしながら慌てて駆け寄って来る名前の姿を、”遊戯”は黙って見つめていた。妹の青い瞳には、心なしか涙が浮かんでいるように思えてならなかった。

「”遊戯”!」
「待たせて悪かった、名前

わざわざ駆け寄って来るところからしても、やはり名前は相当に怖い思いをしたのだろう。牛尾に告げた言葉と同じ音を、今度は純粋な謝罪の意を込めて口にする。すると瞳を三日月形に細めた名前は、ふるふると首を横に振った。盛大に上擦りながら「全然待ってないよ」と言う妹の目は、しっかりと逸らされている。嘘が下手な娘だと”遊戯”は思った、意識が覚醒した瞬間から分かっていたことだけれど。そのまま見つめていると、名前は気まずそうな声で「謝るのはあたしの方だよ」と続けた。

「何故だ?」
「だって、”遊戯”の言い付けを破っちゃったんだもん……。その、木が風で揺れる音が怖くて、聞こえないところまで移動したの……。えっと、ごめんなさい……っ」
「それはもういい。……帰るぞ、名前
「あ!待って、”遊戯”……っ」

言うまでもないが、もう夜も遅い時間なのだ。明日も学校があるし、何より名前を早く寝かせてやりたかった。妹の声を背中に受けながら、”遊戯”は校門に向かって歩き出した。

* * *

「……学校から家までって、歩くと結構あるんだね……」

歩き始めてからどれくらいが経っただろうか。自分に倣ってか黙々と歩いていた名前が、不意にそんなことを言い出した。「行きも歩いたのに全然気付かなかった」と言いながら隣を歩く妹の顔は、今が真夜中であることとは関係なしに暗かった。普段スクールバスで通学している名前にとって、この帰路はそれなりにきついのだろう。

(まして、この暗い道だ。名前の顔が暗くなるのも無理はないな)

妹がどれだけ怖がりな性格をしているかを誰よりもよく知っている”遊戯”は、制服のポケットから札束を取り出した。牛尾がボディガード料として要求していた金だ。これは祖父が用意してくれたかけがえのない金だが、名前の為に使うのなら祖父も赦してくれるだろう。

名前、これでタクシーでも呼ぶといい」
「え……。でも、”遊戯”は……?”遊戯”も一緒にタクシーで帰るんだよね?」
「いや、オレはいい。これはじいちゃんがオレ達の為に出してくれた金だからな。オレは歩いて帰るさ」
「じゃあ、あたしも歩く!」
「……無理はしなくていいぞ」
「無理してないよ、あたしだけタクシーで帰るなんて出来ないもん!それに、おじいちゃんのお金なんでしょう?あたしの為に使うなんて、そんなの良くないよ……」

基本的におとなしい性格をしている名前だが、その一方で頑固なところがあることを”遊戯”はよく知っていた。仮にタクシーで帰れと強く言い聞かせたところで、妹が頷くことはないだろう。

「分かった」

取り出した札束をポケットにしまい込むと、名前はあからさまにホッとした様子で「うん」と言った。しかし妹が顔を綻ばせたのも束の間のことだった。今度は顔色を窺うようにこちらを幾度となく見つめて来た名前に、”遊戯”は目線だけを向けた。

「……どうした?」

催促するように見つめてもなお話を切り出さない妹に対して、助け船を出してやる。すると、名前は思い切り眉根を寄せながら口を開いた。眉根を寄せるのと同時に両手の指を忙しなく触れ合わせるのは、名前が緊張している時の癖だった。

「あの……。あのね、”遊戯”……」
「ああ」
「さっきから、すごく怒ってるよね……。……怒ってるでしょう?」
「……ああ」

思っていたのとは違う問いかけだった。それを意外だと思いつつも、隠す意味もないので”遊戯”は素直に頷いた。その途端に、名前の瞳には涙がじわりと浮かんだ。まるでこの世の終わりでも訪れたかのような表情で俯いた妹に、”遊戯”は苦笑した。

「顔を上げてくれ。オレが今怒っていることは認めるが、別にお前に対して怒っているわけじゃない」
「ほ、本当?」
「ああ。オレがオレ自身に対して怒っているだけだ」
「”遊戯”が、自分に?……でも、どうして?」
名前を危険な目に遭わせたからに決まっているだろう。オレがもう少し注意を払っていれば、お前が恐怖を感じることもなかったはずだ」

直接顔を合わせたのも声を交わしたのも今日が初めてのことだったが、名前は”遊戯”にとって大切な存在だった。大事な大事な、たった1人の妹だ。普段はおとなしい癖に色々と無謀とも言える行動に出るのが玉に瑕だけれど、それでも名前は妹だった。名前は、遊戯の脳内でかなりの部分を占めている娘だ。勝気な幼馴染に向けるものとは種類が違うけれど、遊戯が名前を好いていることは歴とした事実なわけで。遊戯が大切にしている人間を”遊戯”が大切にしないはずがないのだが、名前には上手く伝わらなかったらしい。しっかりと否定したのにも拘わらず、”遊戯”の大切な妹はどういうわけか過呼吸寸前だった。

「あ、あたしを嫌いになったんじゃなくて……?」
「落ち着け、名前。オレがお前に怒ることはあっても、お前を嫌いになるわけがないだろう」

念を押すように告げると、半ばパニックに陥っていた名前は少しずつ落ち着きを取り戻していった。やっとのことで元に戻った妹に、安堵と呆れが入り混じった溜息をつく。

「……まあ、夜中に女1人で出歩くのは感心しないが」
「で、でも……。何もなかったよ……?」
「それは、ただ単に運が良かっただけだ」

それから”遊戯”は手を伸ばして、名前の額をそっと小突いた。これはちょっとしたお仕置きだ。誇張表現でも何でもなく、深夜の童実野町を女が1人で歩くのは本当に危険なのだ。見るからに気の弱い雰囲気を漂わせている娘が1人で出歩いているとなれば、夜遊びをしている人間に目をつけられてもおかしくはなかった。何事もなかったのは、これまた幸運が味方してくれたからに過ぎないわけで。自分を庇ってナイフの前に飛び出した時とは違う意味で危ないところだったのだから、これくらいしても罰は当たらないだろう。今は意識の奥底で眠っている遊戯だって、このことを知ったら絶対にいい顔をしないはずだ。

「そもそも、お前は何故深夜の学校に来たんだ?オレに用でもあったのか?」
「うん……。ホットケーキを焼いたんだんだけど、”遊戯”が家のどこにもいなかったんだもん……。それで、つい……」
「……ホットケーキ?」
「だって、遊戯は夕ご飯を全然食べなかったでしょう?あたしが焼いたホットケーキだったら食べてくれるかもしれないって思ったの。ほら、いつも遊戯は喜んで食べてくれるし……」

妹が焼いたホットケーキを美味しそうに食べる遊戯の記憶はあるが、”遊戯”自身はそれを食べたことがなかった。だから”遊戯”は黙っていたのだけれど、名前は何を勘違いしたのか「お腹空いてない?」などと見当違いなことを口にするばかりだった。名前の気遣いは嬉しいが、それで夜の街を出歩くのは考えものだ。ホットケーキが原因で襲われる羽目になっていたとしたら、兄としては悔やんでも悔やみ切れない。

「それでお前は真夜中の学校まで来たのか。オレがいなかったらどうするつもりだったんだ、まったく」
「上手く説明出来ないんだけど、遊戯が学校にいるような気がして……。……その。えっと、ごめんなさい……」

名前は先程と同様に謝ったが、”遊戯”は釈然としない思いだった。何せ妹が取った行動は、先程とはわけが違うのだ。真夜中に1人で出歩くのもナイフの前に飛び出すのも、どちらともが危ない行動だと言い切れる。特に後者の方は、一歩間違えれば命に関わる無謀な行いだった。いくら妹に対して怒っていないとはいえど、謝られて簡単に赦せるはずもなかった。

「オレの為に身を危険に晒すような真似はするな。……正直言って、オレの前にお前が飛び出した時は寿命が縮む思いだった」
「で、でも……」
名前、頼むから聞き分けてくれ。それから1人で夜に出歩くのも金輪際止めて欲しい。もしもお前に何かあれば、じいちゃん達や杏子を悲しませることになるんだぞ」

家族や親友の名前を出したことが、名前にとっては効果的だったらしい。最初こそ頷かなかった妹は、2人の名前を出した途端におろおろと狼狽し始めた。もう一押しだと”遊戯”は思った。名前の気持ちも分からないでもないが、これだけは譲れないのだ。

名前、二度としないと誓えるか?」
「うん……。約束するね……」

まっすぐにこちらを見つめてそう言い切った名前は、どこをどう見ても嘘を言っている様子が見受けられなかった。こうして宣言した以上は、妹が約束を違えることはないだろう。

「よし。この話はこれで終わりだ」

止まっていた足を再び前へと動かした”遊戯”は、けれど幾ばくもしないうちに立ち止まった。何かを訴えるかのようにこちらを見ている妹の視線が、何本も背中に突き刺さっているのだ。他の人間ならいざ知らず、名前のそれを無視出来る程”遊戯”は非情ではなかった。

「……どうした、名前。オレに訊きたいことがあるんだろう?」
「……う……」
「…………」
「牛尾さんは、どうしたの……?」

妹の口から放たれたのは、またしても予想外の言葉だった。一歩間違えれば刺されていたというのに牛尾”さん”はないだろうと”遊戯”は内心で盛大に呆れたが、それでも名前を促したのは自分なのだ。さて、どう答えようか。そんなことを思いながら、”遊戯”は問いかけに答えるべく口を開いた。

「さあな。それはオレにも分からない。どうなるかはやつ次第だろう」

随分と抽象的な答だと自分でも思ったが、そっくりそのまま真実を告げるわけにもいかなかった。さりとて嘘を言うつもりもない”遊戯”にとって、これが問いに対してのギリギリの答だと言える。

「えっと……?」
「一応言っておくが、オレは嘘をついたわけじゃないぜ」

嘘ではない、本当のことだった。牛尾本人の欲望に呼応する幻を見せるという形で時間差の罰ゲームを与えたのは自分だが、牛尾がどんな幻覚を見るかは”遊戯”自身にも分からないのだ。十中八九、どういう意味なのかと考えているのだろう。困惑している妹に目線をやった”遊戯”は、名前に気付かれないように嘆息した。牛尾に殴られた左頬には、自分程ではないにしろ確かな傷跡が出来てしまっている。

(痛々しいな。単純に、恐怖を与える幻覚にするべきだった)

遊戯の記憶を脳内で再生した”遊戯”は、自身の選択をまたもや後悔した。金という単語を連呼していたところからして塵芥が金そのものに見えるという線が濃厚だが、ダイレクトに化け物の幻覚でも見せてやれば良かったと今更ながらに強く思う。よくよく考えれば、あれでは罰ゲームにならない可能性があるではないか。牛尾が明確に恐怖を感じていたのは、額の目を見た時くらいだ。もっともあの場から逃げ出すくらいだから、牛尾にとっては相当な恐怖を感じていたのだろうが。

「……名前、やつがお前に危害を加えることは二度とない。そこは安心してくれていい」
「う、うん……。……あのね、”遊戯”。あたし、言いたいことがあるんだけど……」
「何だ?」

口ではそう言いつつも、とうとう核心に迫る質問をされるのかと”遊戯”は内心で息を吐いた。今の自分は普段の遊戯とはまるで違うわけなのだから、名前もいいかげんそのことに関して尋ねたいと思っているに違いない。果たして何と答えるべきなのだろうかと考えていた”遊戯”の耳に届いたのは、またしても予想を裏切る言葉だった。

「そのパズル、やっと完成したんだね!……おめでとう、”遊戯”!」

名前が口にしたのは、こともあろうに純粋な祝いの言葉だった。思わず目を見開いた”遊戯”の視界に映ったのは、首から下げている金色のパズルを指差している妹の姿だった。妹は、花が咲くような笑みを見せている。

名前……。……お前、オレが怖くないのか?」

頭で考えるより先に、そんな言葉が口から零れ落ちる。ただでさえ怖がりな名前のことだ。絶対に自分を怖がるとばかり思っていたし、ともすれば拒絶されることも”遊戯”は覚悟していた。自分が名前の前に姿を現すのは今回だけだろうという予想すらしていたくらいだ。ところが、妹の反応は予想に反して真逆だった。満面の笑みとしか呼べない綺麗な笑みを見せる妹からは、こちらを怖がる素振りは微塵も感じられない。

「うん。だって、”遊戯”は遊戯だもん!あたしを助けてくれる、優しいお兄ちゃん……。あ!あたしったら、まだ”遊戯”にお礼言ってない!」

自分の問いかけを即座に否定した後で、慌てたように「ありがとう」と頭を下げる名前の姿に少しの間唖然とさせられていた”遊戯”は、ゆっくりと口角を上げた。信じがたいことだけれど、名前は自分の正体に関する質問を口にしなかった。それに何より、名前は自分を怖がらなかった。それは”遊戯”にとって、衝撃的な事実だった。

(オレはオレ、か……。嬉しいことを言ってくれるぜ)

その事実を認識した瞬間に、嬉しさが込み上げて来る。目を細めた”遊戯”は、名前の手を取った。遊戯が昨日妹にしたのとまったく同じ行動だ。名前が悲鳴を上げたのは、足を前に踏み出すのと同時だった。

「きゅ、急に引っ張らないで!びっくりしたよ……っ」
「驚かせて悪かった。……さあ、早く帰ろう。もしじいちゃんにでも見つかったら、オレ達は大目玉を食らう羽目になるぜ?」
「そ、そうだった!おじいちゃんがトイレに起きちゃう前に、急いで部屋に戻らなきゃ……っ!」

そう言った途端に、妹の足が速くなる。目に見えて急ぎ始めた名前に向けた”遊戯”の眼差しは、純粋に兄としてのものだった。……そう、今はまだ。