闇を照らす光 : 003

真夜中の邂逅
童実野高校の校門前で、名前は呆然と立ち尽くしていた。何が起こっているのかが分からない、本当に理解出来ない。いったい何が起こっていると言うのだろうか?

「…………」

学校の周囲に生える木々が、風によって真夜中の校庭にざわざわと響き渡る。臆病な名前にとって普段なら不気味だと感じるそのざわめきは、しかし名前の気を逸らすことはなかった。大きく瞳を見開いた名前は、気付かれていないのをいいことに校庭に立っている2人の男性を遠目から見つめた。風紀委員の牛尾と兄の遊戯が何かをやっているのが分かるが、何を話しているのかまでは生憎分からなかった。

(あれは遊戯、だよね……?)

名前は声に出さずにそう呟いて、2人のうちの片方に目を留めた。誰が見てもそうだと分かるあの特徴的な髪形をしている人は、兄以外にはあり得ない。何より自分が兄を見間違えるはずがない。そう、あそこに立っているのは間違いなく遊戯であるはずなのだ。自分が知っている他の誰よりも心優しい、名前の自慢の兄だ。頭ではそうだと分かっているのに、だけど名前の心に広がったのは強い違和感だった。

(だって、だって……。”遊戯”が持ってるのって……っ!)

”遊戯”がそれを手に持っていることがどうしても信じられなかった名前は、最後とばかりに左頬を思い切りつねってみた。その途端に鈍い痛みに襲われたという事実をゆっくりと認識して、観念したかのようにぐっと眉根を寄せる。何度自分の目を疑ったことだろう。何度自分は夢を見ているのではないかと思ったことだろう。けれどどれだけ瞬きしても、そしてどれだけ強く否定しても、目に映ったあの光景は少しも揺らぐことはなかった。”遊戯がナイフで札束越しに自分の手を刺している”。受け入れ難い現実を受け入れざるを得なかった名前は、けれど何をするでもなくその場に立ち尽くしていた。

(いったいどうしちゃったの、”遊戯”……っ!)

優しくて、ゲームが大好きで、喧嘩と暴力が大嫌いな男の人。それが、名前が知っている遊戯だった。自分が知る限りナイフを持ったことなどただの一度だってないはずの兄が、怯えた様子を微塵も見せずにナイフを扱っている。それだけでも充分過ぎる程にショックだったが、何よりも名前を困惑させたのは2人のやり取りだった。札束越しとはいえナイフを手の上で突き刺しているのだ、誰がどう見てもあれは危険な行為以外の何物でもないだろう。あのままでは、”遊戯”はきっと怪我をしてしまうに違いない。そう思うと名前の背筋には寒気が奔った。兄とまったく同じことをしている牛尾に対して抱いていた恐怖心など、”遊戯”が怪我をするということに比べれば何でもなかった。

「……!」

手から血を流す兄の姿を想像して名前が身体を震わせたまさにその時、牛尾がナイフを固く握り締めるのが目に入った。その途端に耐えがたい程の嫌な予感を感じた名前は、弾かれたように前へと駆け出した。今の今まで金縛りでも遭ったかのように梃でも動かなかった足を懸命に動かして、”遊戯”の元へと走る。

「”遊戯”、逃げて!!」

必死に走る名前の目に映ったのは銀色の光だった。それがナイフであることを認識したと同時に声を張り上げる。牛尾が振りかざしたナイフが”遊戯”に刺さるなんて絶対に嫌だった。兄の代わりに自分が怪我をしたとしても構わない、とにかく”遊戯”が無事であればそれでいい……。頭にそんな一心を浮かべて”遊戯”の前へ飛び出した名前は、反射的に目をつぶった。

「……あれ……?」

固く目を閉じてからどれくらいの時間が経ったことだろう。何も見えない真っ暗闇の中、名前は間の抜けた声を出した。予想に反して一向に痛みを感じないのはどう考えてもおかしい。てっきり、刺された痛みがすぐにやって来るとばかり思っていたのに。

(刺されたのはあたしじゃなくて、”遊戯”の方なの……!?)

最悪の光景が頭を過って、名前はどうしようと心の中で叫んだ。必死だったからあまり憶えてないけれど、牛尾と”遊戯”の距離は対してなかったように思う。そして自分が痛みを感じなかったということは、即ち”遊戯”が怪我をした可能性があるということなのだ。せっかく飛び出したのに、恐れていた事態が起こってしまったのだろうか。その恐怖からなおも目を開けられずにいる名前の鼓膜を、誰かの溜息が震わせた。それは、深い深い溜息だった。

「……名前

溜息が聞こえてから数秒が経った。今度は名前を呼ばれた名前は、ぎゅっと身を縮めた。男子高校生にしては高いこの声の主は、間違いなく”遊戯”だ。きっと、自分は”遊戯”に抱き寄せられているに違いない。名前はそう確信したけれど、それでもなお目を閉じたままでいた。もしかしたら”遊戯”を庇えなかったかもしれないという現実を、まざまざと見せつけられるのが怖かったのだ。

「ご……。ごめんね、”遊戯”……っ。すぐに手当てしなきゃ……っ!」
「いや、オレは大丈夫だ」
「本当に大丈夫なの……っ?さ、刺されてないの……!?」
「ああ。疑うなら目を開けてみればいい」

真っ暗闇の中で聞こえる”遊戯”の声色はいつもと違うように思えてならなかったけれど、それでも痛みを感じているようには思えなかった名前は、数秒間の葛藤の後におそるおそる目を開けた。真っ先に視界に映った”遊戯”の顔には牛尾に殴られたであろう傷こそあるものの、自分が危惧したような切り傷はどこにも見受けられない。その次に腕や足にも目線を移した名前は、地面にぺたりとへたり込んだ。”遊戯”はどこも刺されていなかったのだ。その事実を自分の目で認識した名前の瞳からは、独りでに大粒の涙が零れ落ちた。

「よ、良かったあ……!”遊戯”が無事で、本当に良かったよお……っ!!」
「それはオレの台詞だ。昼間といい今といい、お前はつくづく無茶をする妹だな……」

怒っているのか呆れているのか、はたまた困っているのだろうか。にわかには判断し辛い表情をした”遊戯”が、またしても溜息をつきながらそう言った。止めどなく流れる涙をそっと拭ってくれる兄を、名前は間近で呆然と見つめていた。こうして近くで見るとはっきり分かる。やっぱりこの”遊戯”は、自分が知っている遊戯とは何もかもが違っている……。

(……でも、優しいところは遊戯と一緒だ……)

あなたはいったい誰なんですか。喉から出かかったそんな言葉を寸でのところで飲み込んだ名前は、立ち上がって牛尾に向き直る”遊戯”を何も言わずに眺めていた。

名前、オレの陰に隠れてろ。大丈夫だ、すぐに終わらせる」

いったい何をするのだろうか。ものすごく気になったものの、名前はこちらを肩越しに見下ろした”遊戯”にこくんと頷いた。根拠はないけれど、”遊戯”がそう言うなら絶対に大丈夫だという気がしたのだ。「いい子だ」と柔らかい声で呟いた”遊戯”の背中によって視界を遮られた名前は、ナイフを振り下ろしたポーズのまま固まってしまった牛尾が驚愕の表情を浮かべていることを知る由もなかった。

「さて……。随分と待たせて悪かったね、牛尾さん。このゲームはオレの勝ちだ。ルールを破ったあんたには、運命の罰ゲームを受けてもらうぜ」

”遊戯”が冷ややかな声色でそう言った直後、兄の背中で視界が覆われた自分にも分かる程に眩い光が迸った。そしてそれと同時に牛尾が何かを言っているのが聞こえたけれど、名前には彼が何を言ったのかがよく聞き取れなかった。辛うじて分かるのは、”何か”が起こったということだけだ。どういう風の吹き回しなのか、まるで逃げるようにこの場から走り去ってしまった牛尾の姿を見送った名前は、いったいどうしたんだろうと小首を傾げた。

(あ……。そういえば、このブレスレットも光ったんだっけ……)

ここに来るまでの道中は遊戯を捜すことに夢中になっていたし、見つけてからはそれどころではなかった。だから今の今まで忘れていたけれど、確かに左腕にいつも着けているこの金色のブレスレットも一瞬だけ光を発したのだ。だけど、それがいつ光ったのかは思い出せなかった。色々とわけが分からないことが立て続けに起こった所為で、どうやら頭が上手く働かなくなってしまったらしい。うんうんと唸る自分に向かって手を差し伸べてくれた”遊戯”の瞳の色が、暗がりの中にぼんやりと浮かび上がる。目に焼き付いたその鮮やかな赤色を、名前は実に綺麗だと思った。