闇を照らす光 : 002

心弱き妹、心強き兄
昼休みのチャイムが鳴った瞬間、待ってましたとばかりにクラスメイト達が駆け出して行く。そんな彼らを例によって見送った名前は、今日も今日とてパズルに取り組んでいる遊戯を目を細めて見守っていた。目の前で大あくびをした兄を見て、くすりと笑う。

「ふふ……。すごい大あくびだね、遊戯」
「あはは……。実はボク、昨日はあんまり寝てないんだよね……」
「もしかして、遅くまでパズルをやってたの?」
「うん、何だかすごくやる気がみなぎって来ちゃってね……。きっと、杏子にパズルのことを話したからだと思うんだ」
「…………」

後半部分をぽつりと呟いた遊戯をまじまじと見つめた名前の口角は、自然と弧を描いた。杏子の名前を出した瞬間の遊戯は、それはそれは優しい瞳をしていたのだ。

(やっぱり遊戯って、杏子のことが好きなんじゃないのかな……?)

名前は以前から兄が幼馴染を幼馴染以上に想っているのではないかと考えていたのだが、遊戯のこの反応からするとその推測はやっぱり的を射ているのかもしれない。男子にしては小柄な体格をしている兄はどういうわけか制服を着ていても子供に間違われることが多々あるわけなのだけれど、それでも歴とした高校生なのだ。好きな人がいてもおかしくはない。

(パズルに願ったことって、もしかしたら杏子のことだったりするのかも……)

もしそうだったとしたら、杏子に秘密だと兄が頑なに言い張っていたのにも頷ける。好きな人に詰め寄られている時の遊戯の心境を勝手に想像して、名前はまた笑みを深めた。心優しい兄と勝気な幼馴染は正反対の性格をしているわけなのだが、お似合いのカップルだと名前は思う。もっとも、肝心の杏子が遊戯のことをどう想っているのかが名前には分からないのだけれど。

「さっきから何笑ってるのさ、名前。ボクの顔に何か付いてる?」
「あ!ごめんね、何でもないの!……えっと、とにかく頑張ってね、遊戯!あたしは遊戯を応援してるから!」
「う、うん……」

最初こそ訝しげな表情をしていた遊戯の意識は、すぐに宝物へと向けられたらしい。まるで自分の存在など目に入っていないかのように、一心不乱になってパズルと向かい合っている。真剣そのものの表情をしている遊戯を眺めて、名前はまたしても瞳を細めた。やっぱり自分はパズルを解いている兄を見るのが堪らなく好きなのだ。そんなことを改めて思った名前は、けれど次の瞬間声にならない声を上げた。昨日帰り際に話しかけて来た風紀委員の牛尾が、自分達の教室にずかずかと踏み入って来たのに気付いたからだ。

「やあ、遊戯くん!名前ちゃん!ちょっといいかな……」

彼の存在を認識したと同時に昨日は気の所為なのだろうと結論付けた嫌な予感が湧き上がって、名前は全身をかたかたと震わせた。尋常でない集中力を発揮していた遊戯も、流石に間近で声をかけられたことで集中力を完全に削がれたようだった。問いかけの形こそとっていたものの有無を言わさぬその口調と、場の雰囲気に押されたらしい兄は、困ったように微笑んでから机の上に並べていたパズルを片付け始めた。

「……あの、牛尾さん。ボクはいいですけど、名前も一緒じゃないといけませんか?」
「ん?……名前ちゃんは、オレに付いて来るのが嫌なのかい?」
「あ、あの……っ。あ、あたし……っ」

嫌なのかいと問われた名前は、どうにかそれだけを言った後で口を噤んだ。もしも自分がはっきりとした物言いが出来る女の子だったならば、例えば自分が杏子のような性格をしていたとしたら、きっと牛尾に対して「はい」と言っていたことだろう。こうしてわざわざ問いかけられるまでもなく答は”嫌です”だったのだけれど、名前はただひたすら押し黙っていた。自分が臆病だということは他でもないが一番よく知っている。どれだけ杏子のようになりたいと思ったところで、自分は結局臆病なままなのだ。そんな自分に助け船を出してくれたのは、やっぱり優しい兄だった。

「えっと、そういうわけじゃないですよ。ただ、名前は人見知りが激しくて……」
「ああ、なるほど……。悪かったね、名前ちゃん。そうだな、本当なら名前ちゃんにも来て欲しかったところだが、そういう事情なら仕方ないな。遊戯くんだけでも構わないよ。さあ、着いて来たまえ。キミに見せたいものがあるのだよ」

言い終わるや否や、牛尾は大股でずんずんと歩き出した。彼の後を追って教室を出て行く寸前に振り返った遊戯は、唇だけを動かすと小走りで牛尾の後を追いかけた。教室に1人残された名前は、呆然とその場に立ち尽くした。

「”良かったね”って……。全然良くないよ……っ」

怖くて堪らなかった牛尾から離れられると分かっても、名前の心に渦巻く嫌な予感は消えてくれなかった。むしろ嫌な予感は強まっていく一方で、身体の震えにとうとう耐えられなくなった名前はとうとう両肘をぎゅっと押さえつけた。唇だけで良かったねと言った遊戯はホッとしたように笑っていたが、名前はとても手放しに喜ぶ気にはなれなかった。何故だか分からないけれど、牛尾のことがどうしようもなく怖かった。怖くて怖くて堪らなかった。だけどそれでも、いつだって助けてくれる優しい兄を1人で向かわせることなんて名前には出来るはずがなかった。

「あたしも行かなきゃ……っ」

1人残されてからどれくらいの時間が経ったことだろう。名前は教室にかけられている時計をちらりと見て、それから弾かれたように駆け出した。”名前はここにいて”と声に出さずに告げられたことは知っているけれど、臆病な自分に出来ることなんて何もないのかもしれないけれど。だけど名前は、ただ兄の姿を捜してひたすら走った。どうか、どうか。どうか遊戯が無事でありますようにと、そうひたすら願いながら。

* * *

結論から言えば、名前の願いは叶わなかった。どうやら牛尾は自分の直感通りの人間であったらしく、体育館の裏で邪悪そのものの笑顔を浮かべながら不良生徒達を一方的に痛めつけていたのだ。その不良生徒達には見覚えがある、クラスメイトである城之内と本田だ。そしてやっと見つけた兄は、無事だとはとても言えない姿になっていた。何発か殴られたのだろう、うずくまっている兄を見た瞬間、名前の瞳からは大粒の涙が零れ落ちた。涙で視界を滲ませたまま、名前は呻いている兄に駆け寄った。

「遊戯!……遊戯!!」
「な……。何で来たの、名前……。の、残っててって、言ったのに……」
「だって……っ。あたしだけ残るなんて出来ないよ……っ。大丈夫、遊戯……っ!」
「おや、名前ちゃんも来たのかい?」
「な、何で……っ。何でこんな酷いことをしたんですか……っ!」

名前は相も変わらず震えている身体には構わずに牛尾を思い切り睨みつけた。怖い怖いとうそぶいた牛尾は、けれどにやにやと笑っている。

「別に酷くなんかないさ、名前ちゃん。これはそいつらいじめっ子達への制裁なのだ!この牛尾がキミ達のボディーガードを引き受けると言っただろう?……そして遊戯くんは、このオレの邪魔をした罰を受けてもらっただけだ。2人を庇おうとしたのでね」
「あたし、この2人にいじめられてなんかないです……!いじめをしてるのはあなたの方じゃないですか……っ!もうこれ以上、遊戯達に手を出さないでください!」
「それじゃあ、キミが代わりに殴られるかい?名前ちゃん」

牛尾の言葉で、名前は前へと進み出た。倒れ伏している3人を庇うように、震える腕を精一杯伸ばす。

「……あなたがこれ以上暴力を振るわないと、約束してくれるなら……」
名前!?」
「武藤、お前……」
「兄妹揃ってイカれてるぜ、お前ら……。いいだろう、美しい兄妹愛に免じてお前の望み通りにしてやるよ!」

牛尾が叫んだ瞬間、左頬に衝撃が奔った。宣言通りに殴られたのだと悟った時には、既に名前は地面に倒れていた。たったの一撃で動けなくなる程の、ものすごい衝撃だった。

名前!!」
「武藤!……牛尾、てめえ……!」
「止めろ!これ以上名前にも2人にも手を出すな!やるんならボクをやりなよ!……2人共、名前を頼むね」
「ククク……そう言ってくれるとオレも助かるよ。遊戯くん、これでもオレは女子には優しい性格でね……。名前ちゃんをいたぶるのは、正直気が進まなかったんだ。その点、お前なら遠慮なく殴れる……!」
「や、止めて……!」
「おい、止めろ武藤!」

名前は必死に立とうともがいたが、身体が思うように動かなかった。城之内か本田のどちらかが、自分を引き留めているのだろう。上手く働かない頭で、名前はぼんやりとそんなことを思った。こんな時だというのに、優しい兄は自分を助けてくれたのだ。まただ、また助けられたと名前は思った。

(あたしって、どうしてこんなに弱いんだろう……)

心はこんなにも遊戯を助けたいと叫んでいるというのに、だけど身体がどうしても動いてくれなくて。暴行を加えられている兄を成す術もなく眺めることしか出来ない自分自身を、名前はぽろぽろと涙を流しながら呪った。