あの夏 : 004
一方的なシンパシー
自分のクラスでチームメイトと共に昼食を咀嚼していた三橋は、心の中ではあっと溜息をついた。野球ボールを投げるのと同じくらい食べることが好きである三橋だが、机の上に広げられた弁当は半分も減っていなかった。普段ならあっという間に平らげていることを思うと、その差は歴然だ。箸があまり進んでいない原因など、自分でも充分過ぎる程に分かり切っている。またしても溜息をついた三橋は、黒板の右隅へと目線をやった。思い思いに散らばって昼食を食べているクラスメイト達の姿は、驚く程に目に入らなかった。「……っ」
吸い寄せられるように黒板のある一点に目を留めたその瞬間に、怖いという気持ちがせり上がって来る。溜息と同じく、今日だけで何度目になるか分からない感覚だった。止せばいいのにと自分でも思うのだけれど、黒板に書かれている今日の日付を三橋はどうしても見てしまうのだ。そして何度見ても、黒板に4月30日と書かれている事実は変わらなかった。そう、今日は4月30日なのだ。つまりはGWの前日だ。
(明日は5月1日……。GWは、合宿……。み、三星と、練習試合……っ)
怖い監督が口にした”合宿では三星学園と合宿します”という言葉を思い出した三橋の目には、自然と涙が滲んだ。合宿、三星、贔屓……。その3つの言葉が、重くのしかかる。
(叶くんと、畠くんと……。他の皆とも、会うんだ……)
ピッチャーの顔が。キャッチャーの顔が。元チームメイト達の顔が、声が。脳裏に蘇る。自分がマウンドにい続けた所為で中学の3年間を負け続けたという事実をもう一度認識した三橋の目からは、とうとう涙が零れ落ちた。そのことに気付いて、慌ててゴシゴシと目元を拭う。泣いているのを一緒に食べている泉と田島に気付かれたら、きっとうざがられるに違いない。
「ん?どうした、三橋?」
「な……。何でもない、よっ!……んと、目にゴミが入った、だけで……」
「あー、ゴミか。けど、擦ると却って良くねえんだぞ。ちょっと待ってろ」
やはりと言うべきなのか、弁当を食べていた泉に気付かれたわけだけれど、三橋は慌ててそう返した。嘘が苦手だという自覚がある三橋はどぎまぎしながら彼のことを見つめたが、泉は自分がついた嘘を信じて疑わなかったらしい。
「ほら、これ使え。オレも時々ゴミが入るからさ、持ち歩いてるんだ」
「あ、ありがとう、泉くん……っ」
にこやかにそう言った泉が、鞄から取り出した目薬を差し出して来る。三橋は罪悪感を抱きながらも「ありがとう」と礼を言った。同じクラスだからなのか、泉は色々と話しかけてくれるのだ。そんな泉にうざがられるのも、嫌われるのも嫌だった。……もちろん、それは彼だけに限った話ではない。泉の隣で弁当をかきこんでいる田島にも、キャッチャーのポジションについている阿部にも、そして他の野球部のメンバーにも、三橋は嫌われたくなどなかった。
「どうよ、三橋」
「す、すーっとする……っ」
「はは、そりゃあ目薬だからな。……ま、その分なら大丈夫そうだな」
「貸してくれて、ありがとう……っ」
「おう。また痛くなったらオレに言えよ。いつでも貸してやる」
「う、うん!」
目薬の清涼感と共に染み渡ったのは、チームメイトの優しさだった。自分がダメなピッチャーであることは疑いようのない事実だけれど、それでも彼を始めとしたチームメイト達はこんな自分を気にしてくれているわけで。そのことが未だに慣れない三橋は、つっかえながら何度もお礼を言った。
「……ん?どした、三橋。何してんだ?」
「た、田島くん……っ」
泉に向けた「ありがとう」のスパイラルを破ったのは田島だった。頬杖をついた彼は、ウインナーを口いっぱいに頬張っている。
「オ、オレ!オレ……っ」
「あー。オレが代わりに説明するよ、田島。三橋が目にゴミが入ったって言うからさ、オレが目薬を貸したんだよ。もう治ったみたいだから大丈夫だ。……っていうか、お前の目の前でやり取りしてただろ」
「んー……。オレ、ちょっと考え事しててさー。全然気付かなかった」
「た、田島……くん?」
少し考え事をしていた。そう言った田島を一瞥した三橋は、おそるおそる彼の名前を口にした。田島の姿に、何故だか強い違和感を覚えたのだ。
「何だ、三橋……っと、泉もどうしたんだよ。そんなにじろじろ見ても、オレの弁当はやらねーぞ!」
「ち……。違う、よっ!」
「いや、そういうことじゃねえって。いつもならとっくに食い終わってる頃なのに、今日は全部食ってねえじゃん。だから、オレも三橋も驚いてんだよ。どこか具合でも悪いのか?それともお前のことだから、飯を食い過ぎたとかか?」
田島の弁当に目線を移した三橋は、目を大きく見開いた。確かに泉の指摘通りだ。時には早弁をする田島にしては、あの弁当の残り具合はおかしいとしか言えなかった。ちなみに田島よりはゆっくりとしたスピードで食べる泉は、既に弁当を食べ終えていた。
「あのなー泉、明日からは合宿なんだぞ!オレだってそこら辺は気を付けてるって。ただの考え事だよ、考え事!」
三橋は合宿という単語を第三者の口から聞いた瞬間に身体をびくつかせたが、それでも田島を見つめ続けた。自分の心がさっき程に乱れなかったのは、自分自身より彼のことがずっと気にかかったからだ。
「田島くん……。ほ、本当に大丈夫?な、何か……変だよ」
「何だよ、三橋まで。オレは大丈夫だって言ってるだろ」
「いや。三橋の言う通りだぜ、田島。お前、何そんなに深刻そうな顔してんの?」
「……オレ、そんなに深刻そうな顔してる?」
「してるって。なあ、三橋」
「う、うん……!」
「そっか。そんなつもりはねえんだけどなー……」
不思議そうな表情で瞬きをし始めた田島に向けて、こくこくと何度も頷いてみせる。泉は無言で田島を見据えるだけだ。どうすればいいのか分からなかった三橋は、泉と田島の顔を交互に見つめていた。すると、口内に放り投げたかぼちゃの煮物を飲み込んだ田島が、それは深い息を吐き出した。
「オレ、名字のことを考えてたんだ」
「名字、さん!」
田島の口から唐突に言い放たれたのは、マネージャーの名前だった。名字名前という名前の女子の顔を思い浮かべた瞬間に、三橋もまた彼女の名前を口にした。黒髪で、おとなしくて。そして、どこか自分と似ている人だと三橋が勝手に思っている女子だ。
「……急に立ち上がってどうした、三橋。クラス中の注目集めてんぞ」
「い、泉くん!オレ、名字さんの名前が、聞こえたから……っ。……あ、あれ?」
無意識とはいえ、立ち上がった上に名前の名前を連呼してしまったのだ。彼女の迷惑になっていやしないかと教室内を見渡した三橋は、あることに気が付いた。いつもなら教室の後ろで昼食を食べているはずの名前の姿がどこにも見当たらないのだ。おまけにもう1人のマネージャーである千代の姿もない。慌てて席に座った三橋は、誰にともなく問いかけた。
「名字さん、と……。篠岡さん、は……?」
「名字は7組で食ってるよ、篠岡も一緒だ」
「な、何で……?」
「名字が言い出したんだよ。今までは、7組の篠岡がわざわざうちのクラスまで来てたわけだろ?毎日来てもらうのが心苦しいから、これからはそれぞれの教室を行き来するんだとさ。だから、明日は9組で食うんじゃねえの?」
「……え」
「そうなんだ……っ。泉くんは、すごい、ね……!」
「あのなあ三橋、そんな目でオレを見るなよな。たまたま昨日、2人が話してるのが聞こえただけだよ。田島、お前も変な勘違いするな……。って、田島?」
田島は泉の声に答えなかった。目を見開いた田島は、右手に箸を持ったまま呆然としている。
「そっか。そうなのかー……」
「おーい、田島ー。……あ、やっと気付いたか」
「泉!オレ、納得した!」
「納得って?」
「名字のことに決まってんじゃん。何で教室にいないのかなって、ずっと考えてたんだぜ」
うんうんと頷いた田島は白い歯を見せて笑った。彼らしい、眩しいくらいの笑顔だ。いつも通りの田島がようやく戻って来たのだと、三橋はホッと安堵の溜息をついた。
「名字、か。そういや田島って、名字によく話しかけてるよな」
「当たり前じゃん。名字はオレらのマネージャーだし、同じクラスだろ」
「いや、それはそうなんだけどさ。篠岡だってマネージャーなわけじゃん。けどお前、篠岡より名字に話しかけてることの方が多いだろ?今日の朝練なんて、わざわざ遠くにいる名字に大声で呼びかけてなかったか?」
会話のキャッチボールについていけない三橋は、弁当をつつきながら田島と泉の顔を交互に見つめた。合宿のことが頭から弾き出されたおかげで食欲が一時的に戻ったことに、三橋はまるで気付いていなかった。
「うん。だってオレ、名字が気になるんだもんよー」
「……え?」
「あ、このにんじん美味え!」
田島は泉の言葉に事も無げに頷くと、箸の先で突き刺したにんじんを口の中に放り込んだ。そして泉はというと、田島の言葉でものの見事に固まっていた。
「き……。気になるって、お前……」
「何だよ。泉は名字のこと、気にならねえの?オレはすっげえ気になってるけど」
「いや、お前さあ……。あー……。今のって、本気で言ってんのか?」
「本気で言ってるよ。なあ、三橋はどうだ?」
話を振られた三橋は、ふりかけご飯を飲み込むと慌てて頷いた。名前には言っていないけれど、三橋は彼女に対して一方的なシンパシーを感じているのだ。
「田島くん!オレも、名字さんが気になる!名字さんと、話し、たい……っ。オ、オレに似てる感じ、するし……っ!」
「だよなあ!やっぱ、名字は三橋にそっくりだよな!……でもさあ、名字は三橋じゃねえんだよな」
「は?そんなの当然じゃねえか。名字が三橋に言動が似てるのは同感だけど、あいつはあいつだろ」
「そうだけど、そうじゃなくてさあ。名字は三橋とそっくりだけど、三橋と違って壁があるわけよ」
「壁?」
「そう、壁な!なんつーか、すっげえ固いやつ。お前、こっちに来るな!……みたいな。とにかくすっげえ固くて分厚いのが、名字と話してると出て来るんだよ。……な、気になるだろ?」
箸を置いて身振り手振りで説明する田島は、名前には壁があると言う。思わず首を傾げた三橋は泉と顔を見合わせた。泉もまた、自分と同じように首を傾げている。
(壁、って……。オレは、そんなの感じたこと、ない……)
名前と話した回数は少ないが、自分は壁を感じたことはないと三橋は言い切れる。むしろ名前の方から話しかけてくれることの方が多いのだ。首を捻った泉が、わけが分からないと言わんばかりの溜息をついた。
「……あのさ、田島。オレはお前の言う壁を名字に感じたことはねえけどさ、あいつってすげえおとなしい奴だろ。単純に、田島にびびってるだけなんじゃねえの?お前は声も大きいし、今朝もお前が寄ってった時にあいつは他の部の奴らにじろじろ見られてたしな」
「オレは普通に話してるつもりなんだけどなー。名字にとってはそうじゃねえのかな」
「さあ、それはオレにも分かんねえよ。別にお前限定ってわけじゃなくて、声が大きくて何となく怖そうな奴は壁を張るんじゃねえの、名字はさ」
「……オレ、ここ最近は特に名字のことを見てたんだ。でも、やっぱオレだけなんだよ。花井とか巣山とか水谷とか、とにかく他の野球部の連中とは普通に喋るのにさあ。オレと話す時にだけ絶対壁があるんだ。阿部……はどうか分かんねえけどな。名字が阿部と話してるとこ、見たことねえし」
田島はそう言って口角を上げたが、それはさっきのものとは明らかに違う種類の笑みだった。三橋は寂しそうに笑う田島を何も言えずに見つめていた。彼が明らかに無理をして笑っているのは分かるが、どんな言葉をかけてやればいいのかが分からなかったのだ。
「オレ、名字に嫌われてんのかなー……」
「た、田島くん、は!嫌われて、なんかない、よっ!」
ぽつりと呟いた田島の言葉を聞いた瞬間、三橋はそう言いながら勢いよく立ち上がった。その所為で椅子が盛大な音を立てて倒れたわけだけれど、それには構わずに「嫌われてなんかない」と重ねて口にする。田島が、泉が、そして教室にいるクラスメイト達が。揃って驚いた顔をしていることを全身で悟って、だけど三度「田島くんは嫌われてない」と繰り返した。根拠は何もないけれど、三橋はそんな確信を抱いていた。
「名字さんは、田島くんを嫌ってない!」
「三橋……」
「きっと、名字さんは……。名字さんは、どうしていいか分からないだけだ、と思う……っ。だって、オレもそうだから……」
「三橋、お前……。そんなでかい声出せたんだな。阿部が知ったらびっくりするぜ」
「あ、阿部くん……!」
「いや、阿部はいねーよ。つか、何でそこで小さくなるんだよ。もっと堂々としてればいいのによ」
「う、オ、オレ……っ。……た、田島くん……っ」
「……ありがとな、三橋」
頭の上に手を置かれた三橋は、田島の顔を見てホッと息を吐いた。偉そうなことを言ってしまったと一瞬だけ焦ったものの、彼が怒っている様子はなかったのだ。泉にも礼を言った田島はいつものように彼らしく笑っていた。
「よし。……決めた!」
「決めたって、何をだよ?」
「オレ、合宿中に名字と話す!そんで、名字と仲良くなる!」
そう宣言するように言い切った田島は、力強く拳を握った。「頑張れよ」と言った泉に遅れてエールを送った三橋は、もう一度黒板に書かれた日付を見た。明日はGWだ。三星学園にいる皆のことを思うとどうしようもなく逃げたくなるけれど、それでも合宿は明日から始まるのだ。名前と話すのだと声高に宣言した田島のように、自分も三星の皆と話せる機会がありますように。心の中でそう願った三橋は、最後に残ったご飯の塊を勢いよく放り込んだ。