あの夏 : 005

気になる!
「はあ……。やっと終わった~……」

千代がマネージャーを務める、西浦高校硬式野球部。自分達マネージャーも含めた全員が訪れた合宿所の玄関前で、千代ははあっと大きな息をついた。自分達は、数回に渡る買い出しからようやく帰って来たところなのだ。顧問の志賀先生が着いて行ってくれたとはいえ、大人数の食材をここまで運んで来るのはかなりの重労働だった。

(ソフトやってた時はもっとキツイ運動だって平気でやってたのになー……。やっぱり運動しないと体力ってどんどん落ちていっちゃうんだ……)

重い荷物を運ぶこと自体だって大変だったが、一番の強敵は合宿所の前にそびえ立つ階段だったと言える。ソフトボール部に入っていた頃は、それこそこんな階段以上の距離を毎日走っていたというのに。それが今は、階段をちょっと上り下りしたくらいで息が上がる始末なのだ。自分が肩で息をしていることに気付いた千代は、思わず苦笑した。

「2人ともお疲れさん。食材を冷蔵庫に入れたら少し休憩しておいで。布団の取り込みはボクがやっておくから」
「はあい……。ありがとうございます……」

志賀が口にしたその言葉は、今の自分にとっては何よりもありがたいもので。素直に礼を言った千代は、奥の部屋へと入って行った志賀を見送るともうひと踏ん張りとばかりにのろのろと歩き出した。そして、両手にぶら下げたビニール袋を部屋に置いてあるテーブルの上にどさりと乗せる。

(あれ?このテーブル、すごい綺麗になってる……。皆、真面目に仕事してたんだー……)

ここは、合宿所というより風情がある古民家と言い表す方が相応しい建物だった。出かける前は確かにうっすらと埃が積もっていたはずのテーブルは、今や顔が映るのではと思うくらいにピカピカに磨き上げられていた。自分達が買い出しに出かけている間に、掃除担当となっていた男子達の誰かが綺麗にしてくれたに違いない。そのことにちょっとだけ感動しつつ、友達のことが心配だった千代は再び歩き出した。体力がないと話していた名前は、果たして大丈夫なのだろうか……。

名前ちゃん!」

千代の不安は的中した。かわいそうに、まだ息が整わないのだろう。自分以上にはあはあと肩で息をしながら玄関にへたり込んでいる名前の額からは、一筋の汗が流れている。

「大丈夫、名前ちゃん!?」
「う、うん……。千代ちゃんこそ大丈夫……?」
「もうっ、私は大丈夫だから!名前ちゃんは、私より自分のことを心配しなよ!」

名前とのつき合いはまだ数ヶ月程度だが、それでも彼女の性格はある程度把握している。名前はすごくおとなしくて、頑張りやで、そして自分のことは後回しにしがちな性格の女子なのだ。こんな状況でも他人のことを心配する名前に盛大で脱力した千代は、けれど「待ってて」と言って踵を返した。今の名前に必要なのは叱咤ではない。汗を流している今の名前に必要なのは……。

「ほら、篠岡。茶だ。もう1つは名字に渡してやってくれ」
「あ!ありがとう、花井くん!」

ナイスタイミングとはまさにこのことだ。自分が欲していた物を手に持ってやって来た花井から、千代はお茶の入ったコップを2つ受け取った。間違っても零さないように気を付けながら、名前の元へと舞い戻る。千代は彼女を上り框に座らせると、にっこり笑顔でお茶を差し出した。

名前ちゃん、お茶だよー!花井くんが持って来てくれたの!」
「は、花井……くん。あ、ありが……」
「いや、お前なあ……。礼はいいから早く飲めよ。お前、肩で息してんじゃねえか」

実際に頷きはしないけれど、千代も花井の言葉に盛大に同意したい気分だった。こんな時くらい、名前には自分自身のことを一番に考えて欲しい。

「で、でも……。これ、早く冷蔵庫に入れな、きゃ……」
「いいって。オレが持って行ってやるからとにかく飲みな。篠岡、これ全部冷蔵庫に入れときゃあいいんだよな?それもオレらでやってやるから、お前もちょっと休んどけ。喉渇いてんだろ?」
「うん!ありがとう、花井くん」
「おう。……手が空いてる奴、ちょっと手伝ってくれ!手分けして片付けるぞー」

花井の一声で、男子達が何事かと集まって来る。中には、わざわざ作業の手を止めてまで来てくれる人もいて。千代はそんな彼らに感謝しながら、コップに入った麦茶をひと息で飲み干した。冷たいお茶が喉を、そして心までも潤してくれる。千代はホッと息を付いた。

「あー美味しい!……ほら、名前ちゃんも早く飲みなよ!花井くんに見つかったら、今度は怒られちゃうよ?”こら、まだ飲んでないのかー!”って!」
「う……。は、はい……」

冗談めかして言った言葉を、けれど名前は本気に捉えたようだった。顔を蒼くさせた彼女が微笑ましくて、くすくすと忍び笑いが漏れる。

(……あれ?)

ようやくコップに口を付けてくれた友達を見守っていた千代は、ゆっくりと振り向いた。ふいに、誰かの強い視線を感じたのだ。

(田島くん……?)

視線の主は田島だった。彼は柱に寄りかかった状態で、少し離れたところからお茶を飲んでいる名前をじっと見つめている。そんな彼を眺めていた千代は、大きな違和感に襲われた。

(うーん、何だろう……。何か変な感じがするんだよね……)

その違和感の正体を突き止めようとしていた千代は、花井の怒号で我に返った。こめかみに青筋を立てた花井が、田島に詰め寄っているのが目に映る。それはまったくもって、いつも通りの光景だった。

「こら田島!何サボってやがんだ!お前はさっき休憩したばっかじゃねえか!」
「……あ、花井」
「何が、”あ、花井”だ!まったくお前は油断も隙もありゃしねえ……!ほら、お前は栄口と一緒に志賀ポの手伝いだ!……悪いな栄口。田島を見張っててやってくれ」
「はいよー。……田島、ここは花井達に任せてオレ達は行こうか」
「んー……。分かった」

喉の渇きを未だに感じた千代は、背中を向けた栄口と田島の後ろ姿を見送ると、ゆっくりと立ち上がった。そして、隣に座っている友達が手にしているコップに目を落とす。彼女も自分に負けず劣らず喉が渇いていたのだろう。結構な量のお茶が入っていたはずだが、コップはあっという間に空になっていた。

名前ちゃん。良かったら、お茶のお代わり持って来ようか?」
「え!?そんな、千代ちゃんに悪いよ!あたし、自分で行くから……」
「全然悪くないよ。だって、私もお代わりが欲しいなって思ってたところだもん。名前ちゃんの分もついでに持って来るねー」

千代は名前がおずおずと差し出したコップを受け取ると、部屋の奥へと向かった。改めて台所をぐるっと見回して、物珍しさからそっと溜息をつく。風情がある外観同様に年季の入った台所だ。特に千代の目を惹いたのはこれまた古いコンロだった。その年季の入り具合と言ったら、自宅に備え付けられている新品のコンロが懐かしいとさえ思える程だった。

「……何やってんだ、篠岡」
「何でもないよー。お茶のお代わりついでにちょっと見てただけ。この台所、相当古いみたいだから」
「あー、お代わりか。今、茶を水出ししてる最中なんだよ。悪いけど、ちょっと待っててくれ」

花井が散らばっているビニール袋を几帳面に折り畳んでいたことに気付いて、千代は笑みを漏らしながら「うん」と返した。多分、いや間違いなく、彼の血液型はA型だろう。

「何から何までありがとうね。花井くんのおかげで随分楽しちゃったよ!花井くん1人だけでいいの?」
「おう。後は散らばってる袋を片付けるだけだからな。篠岡こそ買い出しお疲れさん。誰か1人くらい着いていかせりゃ良かったな」
「花井くんの方こそ大変だったでしょ。人数分の布団を干したんだって?志賀先生が、”花井はよく気が付くって”褒めてたよー」
「あー……。あの人に褒められてもなあ……」

頬を掻いた花井は、意外にも嬉しくなさそうだった。微妙な反応を示した花井に、千代は小首を傾げながら口を開いた。

「花井くん、嬉しくないの?」
「いや、褒められてるつーかさ……。どっちかっていうと、何かバカにされてる感じがしねえ?」
「え?そうかなー……。花井くんの考え過ぎなんじゃないのかな……」

そんな取り留めのない会話をしていた千代は、ふとあることを思い出した。考え過ぎと言えば、さっきの田島に感じた違和感は果たして自分の考え過ぎなのだろうか。

「……ねえ、花井くん。田島くん、大丈夫かな?」
「え、田島が?何で?……三橋じゃなくてか?」
「うーん……。三橋くんも心配なんだけど……。田島くんも何となく元気がない感じ、しない?」
「田島が、元気がない?……あの田島が?」

しばらく首を捻っていた花井は、やがてはあっと溜息をつくと頭を振った。「それこそ篠岡の考え過ぎだろ」と言われてしまって、千代はまたしても首を傾げた。あれはやはり、自分の勘違いなのだろうか。

「あいつはいつも通り元気そのものだぞ。元気過ぎてはたきをそこら中で振り回しまくっててさ、色んな奴に怒られてた。あいつ、絶対上に兄貴か姉貴がいるだろ」
「……うん、それには私も同感。それで、花井くんはお兄ちゃん子って感じだよね。だって、すごく面倒見がいいもん」
「双子の妹がいるんだよ。妹達をちゃんと見てなさいって、小さい頃から親に色々躾けられてなー……」
「双子なんだ!いいなあ、にぎやかそうで……」
「にぎやかっていうか、うるさいだけだけどな。篠岡は兄妹とかいるのか?」
「うん。妹が1人いるよ」
「あ、やっぱりお前も上だったか。絶対そうだと思ってたんだよなー。名字に対する接し方とか見てるとさ、篠岡は姉貴にしか見えねえよ。それで、名字は妹系っていうかさー……」

花井が名前の名前を出した瞬間に、千代の身体には電流が奔った。ようやく違和感の正体に気付いた千代は、花井がいるのにも拘わらず口をあんぐりと開けた。

(そっか。名前ちゃんだ。……田島くん、名前ちゃんに話しかけてないんだ)

同じクラスだからなのか、田島がマネージャーである名前に何かと話しかけていることは千代もよく知っていた。毎日のように話しかけていたと思う。それこそ、見かける度に話しかけていたと言っても過言ではない程に。だけどさっきはただ遠くから見ているだけで、田島が名前に話しかけることはなかったのだ。よくよく考えてみれば、それは確かにおかしなことだった。

「おい、篠岡?どうした?」
「……あ、ごめん花井くん。何の話だっけ?」
「だから篠岡が姉貴で、名字が妹系って話だよ。あいつも兄貴か姉貴がいるだろ」
名前ちゃん、一人っ子だって言ってたよ」
「え!マジか!?何だよ、名字は絶対妹だと思ってたのになー……。っと、そろそろいいだろ。篠岡、コップ貸してくれ」
「はーい」

手早くお茶を淹れてくれた花井に礼を言って、千代は名前の元へと急いだ。すぐ戻るはずだったのに、結果的には随分と待たせてしまった。何をするでもなくおとなしく腰かけていた名前の目の前に、コップを差し出す。

「はい、名前ちゃん。遅くなってごめんね」
「あ、ありがとう……」

千代は何度も頭を下げる名前に「どういたしまして」とにこやかに返して、名前の隣に腰を下ろした。この麦茶を飲み干したら仕事再開だ。掃除の後は皆と一緒に山菜採りの予定になっているわけだが、今の千代の脳内は山菜ではなく田島と名前のことで占められていた。

(田島くん、どうしたんだろう。やっぱり、名前ちゃんと何かあったのかな……)

2杯目のお茶に口を付ける名前を横目で見ながら、千代は心の中でそっと息を吐き出した。多分、田島と名前の間には何かがあったのだろう。

名前ちゃんは普通にしてる感じだし、まさか喧嘩とかじゃないと思うけど……。うーん、すっごく気になる……)

ものすごく気になるものの、流石に何があったのかと2人に直接訊く気にはなれなかった千代は、もやもやを流し込むかのようにお茶を勢いよく飲み干した。口の中には麦の香ばしい香りと、どこか苦い味が広がった。