あの夏 : 003
そばかす
「名前ちゃん、本当にありがとうね!」ジャージ姿の千代と一緒になってグラウンドで草むしりをしていた名前は、友達の言葉に瞳をパチパチと瞬いた。千代が突然そんなことを言い出した意図が掴めない。いったい何のお礼だろうと声に出さずに呟いた名前は、小首を傾げた。
「あの……。ありがとうって……?」
「そりゃあもちろん、名前ちゃんがマネジになってくれてありがとうって意味だよー!だって私、本当に心細かったんだもん!」
周囲には自分達以外に誰もいないはずだが、そこで言葉を切った千代は確認とばかりにきょろきょろと辺りを見回した。友達に釣られて首を回した名前の心には、更に疑問が膨れ上がった。余程言いにくいことを話すつもりなのだろうか。
「……あのね、名前ちゃん。百枝監督っているでしょ?」
「うん……。あの人がどうかしたの?」
好き放題に伸びる雑草をぶちぶちとむしりながら監督の顔を思い浮かべた名前は、やっぱり小首を傾げながら頷いた。自らを百枝まりあと名乗った野球部の監督は、驚くべきことにまだ若い女性だった。歳は流石に訊けなかったが、多分自分達より5歳くらいは上だろうと名前は思っている。一目見た瞬間に、彼女を”綺麗な人”だと思ったことは記憶に新しい。あんなに綺麗でスタイルもいいなんて羨ましい限りだと、名前はほうっと息を吐き出した。
「すっごく綺麗な人だったよね……。あたし、監督が女の人だなんて思わなかったよ……」
「うん……。すごく綺麗なんだけどね、すごく怖いんだよ……っ!」
「……え?」
「だって!甘夏みかんを手で絞っちゃうんだよ!?怖いと思わない!?」
「え、え……?ええええっ!?」
「だから名前ちゃんが一緒にマネジになってくれて本当に嬉しかったし、本当に心強いって思ってるんだよ!」と叫んだ千代の言葉は、けれど名前にはまるで届いていなかった。”甘夏を手で絞った”と、確かに千代はそう言った。その言葉のインパクトが強過ぎて、名前は呆然と友達を見つめた。
「て、手で絞った……の?……あの甘夏を?」
「そう!その甘夏を手で絞ったの!もうびっくりしちゃったよー!この目で直接見たんだけど、もう少しで叫ぶところだったもん!」
「…………」
名前はものの見事に放心していた。結局は遅刻してしまった名前はいつも以上にびくびくしながら監督に挨拶をしたのだけれど、結果的には怒られずに済んだわけで。だから監督には綺麗で優しい人だという印象を抱いていたというのに、だけど千代は怖い人だと声を潜めて評したのだ。「これからよろしくね」とにこやかに言って、自分に対して手を差し出した監督の姿が脳裏に蘇る。
(確かに力強い握手だとは思った、けど……)
まさか、甘夏を絞れる程力があるとは思わなかった。あの細腕のどこにそんな力があるのだろうか。名前はさあっと顔を蒼褪めさせて、震える声で「怖い」と呟いた。自分が千代の立場だったとしたら、絶対に悲鳴どころでは済まないだろう。まず間違いなく気絶する自信がある名前は、友達を尊敬の眼差しで見つめた。
「ち、千代ちゃんは直接見たん、だよね……?それでもマネージャーになろうと思えるなんて、千代ちゃんはすごいよ……っ」
「そんな!私は全然すごくないよ!?だって、今でも監督を見ると怖いって思っちゃうもん!一瞬だけど、マネジやるのは止めようって考えたくらいだし……!」
「で、でも!千代ちゃんは結局ここに来たでしょう?あたしだったら絶対逃げ出してるもん……。やっぱり千代ちゃんはすごいよ……!」
「すごくなんてないない!私って単純だから、何とかなるって開き直っただけだよー。だってジュースは生絞りの方が美味しいし、やっぱり私は野球が好きだし!……それに、名前ちゃんもいてくれるもん!一緒にマネジ、頑張ろうね!」
「う、うん……っ。あたし、頑張るね……っ!」
野球部の部室に来る寸前まで、名前は色々な意味で憂鬱だった。もちろん監督を始めとして不安材料がまだまだあるわけだが、それでも名前の中からやる気が失われることはなかった。基本的にマイナス思考である自分にしては珍しいことだ。
(草むしりが一段落したらおにぎり用のご飯を炊いて、その間に飲み物を補充するんだよね……。良かった、これならあたしでも何とかなりそう……)
野球部の部室からここに来るまでの道すがらで千代が教えてくれたマネージャー業は、こんな自分でもどうにかなりそうな業務だった。それに何より、怖い人の巣窟だと思っていた野球部の部員達が予想外に優しかったことも大きいのだろう。名前が思う野球部員そのものの髪形をしている男子達2人に出くわした際は盛大にびびったものだが、彼等は普通に挨拶をしてくれた。
(確か花井くんと巣山くん、だったよね……。えっと、それから……)
心の中で、名前は野球部員達の名前を挙げ連ねた。穏やかな声で「よろしく」と言ってくれた沖と栄口。誰かが自分のことを話したのだろうか、開口一番に「オレも初心者なんだ」と言ったのは西広だった。そしてどういうわけか「何となくうざそう」と花井に言われていた水谷、花井の言葉に頷いていた阿部、最後に同じクラスの三橋と泉と田島。この10人が西浦高校野球部のメンバーだ。
「ねえねえ!名前ちゃんは、もう皆の顔と名前って覚えた?」
「名前は何とか……。顔はまだ全然……」
「えへへ、私もー。うちの野球部って新設したばっかだから1年しかいないわけだけどさ、いきなり10人は大変だよね。私なんて、まだ半分くらいしか顔と名前が一致しないもん」
「半分?」
「うん。阿部くんと花井くんと水谷くんは同じクラスなんだ。あとね、1組の栄口くん。阿部くんと栄口くんとは同中なんだよー」
「そうなんだ……」
「それから田島くんもね!田島くんって、元気いっぱいだよねー。あんなによく通る声でわざわざ自己紹介してくれたんだもん。だから田島くんの顔と名前、すぐに憶えちゃったよ」
「田島くんってまさに”野球少年”って感じだよね!」と言ってふんわりと微笑んだ千代に向けて、名前は曖昧に頷いた。彼女の言う野球少年がどのようなものなのかがいまいち分からなかったのだ。彼が元気いっぱいだとか、よく通る声をしているというのには完全に同意だけれど。
「そういえば、名前ちゃんは同中の人っているの?」
「え、えっと……。多分、誰もいないと思う……」
記憶の糸を手繰り寄せた名前は、ふるふると首を横に振った。記憶が正しければ、多分ただの1人もいないのではないだろうか。
「そっかー。知り合いがいないと不安だよねー」
「う、うん……」
千代の言葉に相槌を打ったものの、知り合いがいようがいまいが同じことだと名前は思った。中学時代をほとんど1人で過ごした自分の影が薄いことは自覚している。仮に同じ中学出身の生徒がいたとしても、こんな自分のことなど碌に憶えられていないに決まっている。
(千代ちゃんは同じ中学の人が2人もいるんだ……。千代ちゃんは明るくて可愛いし、きっと中学でも友達がたくさんいたんだろうなあ……)
名前は再び草むしりに没頭し始めた友達をじっと見つめた。心に浮かぶのは妬みや僻みではなく羨望の感情だ。友達がいなかった自分と、きっと大勢の友達がいたであろう千代。比べても仕方のないことを比べた自分が嫌で、名前は千代がむしった雑草の山に目を留めた。彼女が深く聞いて来なかったことが、名前にはとてもありがたかった。
「あ、いた!……おーい!名字に篠岡!」
沈黙を破られたのは突然のことだった。遠くから聞こえて来たその声で、名前はびくりと肩を跳ね上げさせた。そろりと顔を向けると、野球部のユニフォームに身を包んだ男子が大きく手を振りながらこちらに向かって走って来るのが見えた。底抜けに明るい男子の登場に、名前は身を固くさせた。
「お疲れー、田島くん」
「おー。しのーかもお疲れ!」
「どうしたの?もしかして、監督からの伝言とか?」
「今は休憩中だよ。で、オレは暇だから2人の様子見に来た!」
「あー、そっか。始まってるから結構経ってるもんね。皆、ちゃんと水分取ってる?」
「取ってる取ってる!三橋なんか、阿部に言われてすげえ量をがぶ飲みしてた!あれじゃあ漏れちまうんじゃねーかなー」
「あはは、そうなんだ……。あ、田島くん。わざわざ来てくれてありがとうね!」
苦笑いをしながらひらひらと手を振っている千代のことを、名前は殊更にすごいと思った。自分が彼と会話したら絶対に言葉に詰まってしまうのに、彼女は田島と極普通に会話している。男子が苦手な自分にはとても出来ない芸当だ。
「礼なんていいって。オレが勝手に来ただけなんだからさ!オレらは練習してるだけでいいけど、マネージャーってグラウンドの草むしりもするんだろ?大変だよなー」
「結構大変だけど、名前ちゃんがいてくれるから平気だよー。お喋りしながら出来るし達成感だってあるからね。どっちかって言うと、皆の方が大変なんじゃないかな」
「オレはそう思わねえけどなー。……っと。名字も草むしりお疲れさん!」
わざわざしゃがみ込んだ田島が、むしった雑草の束を摘み上げながらそう言った。そんな彼の顔にそばかすがあることに、名前は初めて気が付いた。
「それにしてもすげえ量むしったなー。随分長いことやってるだろ。篠岡は大丈夫か?」
「ありがとー。私は大丈夫だよー」
「名字は?膝とか痛くねえ?」
「だ……っ。大、丈夫……っ」
「ん、そっか!痛くねえか!」
彼の顔がまともに見れなかった名前は、しどろもどろに言葉を返した。相変わらずのどもり具合だ。せめて、田島がもう少し離れてくれれば少しはまともに会話が出来るのに。今に始まったことではないが、どうして彼はこんなにも近い距離で話しかけて来るのだろうか。ぐぐっと眉根を寄せた名前は、所々に土が付いている田島のユニフォームを見つめながら口を開いた。
「た……。田島、くんこそ、疲れてない……?」
「オレは平気だよ。勉強じゃなくて野球の練習だもんね!野球の練習なら何時間だって出来る!」
「あ。そういえば、田島くんってボーイズの名門チームの4番だったんだって?阿部くんがそう言ってたよ!えっと、何てとこだったっけ……?」
「荒川シー・ブリームスな!オレ、そこの4番だった!そっか、阿部ってオレのこと知ってたのかー。何か意外だなー」
「阿部くんってすっごいマメだもん。そういうデータはちゃんと憶えてると思うな」
「ふーん……」
立ち上がった田島が、摘まんだ雑草を宙に放り投げる。自分達が懸命にむしった雑草は、綺麗な放物線を描いて山の上に着地した。
「……よし、っと!じゃあオレ、もう行くわ。また後でな!」
「うん!練習頑張ってねー!」
「おう!名字もしのーかも、ちゃんと水飲めよー!」
「うん!ばいばーい!」
駆け出した田島に向かって大きく手を振った千代は、草むしりを再開させた。長かった草むしりももうすぐで一段落だ。田島が走り去った先を呆然と見つめていた名前は、「もう少しだから頑張ろうね」と意気込んだ千代に慌てて頷いてみせた。