あの夏 : 002

合わせ鏡の憂鬱
帰りのHRが終わるや否や、大勢の生徒達が一斉に教室から廊下へと飛び出して行く。1年9組の一員である名前は、そんなクラスメイト達の姿を眺めてそっと目を伏せた。これから始まる部活動が余程楽しみなのだろう。脱兎の如く教室から出て行ったクラスメイト達は誰も彼も表情が明るかったが、名前はとてもそんな気分にはなれなかった。いくらマネージャーという形であるにしても、これから自分が向かおうとしているのは文化部ではなく運動部の部室なのだ。それも野球部の部室と来れば、明るい気分になれというのが無理な話だった。

(どうしよう……。きっと、怖い人達がいっぱいいるんだろうなあ……)

HRはとっくに終わってしまったが、今からでも遅くはない。「やっぱりマネージャーなんて自分にはとても無理です」と、勇気を出して断ってしまおうか。そんな考えを抱いた名前は、けれど何も言わずにのろのろと立ち上がった。

名字ー!準備出来たか!?」

立ち上がると同時に声をかけて来たのは田島だった。その表情はきらきらと輝いている。絶対に早く部室に向かいたかっただろうに、彼はこんな自分をわざわざ待っていてくれたのだ。しかも、自分を待っていたのは田島1人だけではなかった。どこか呆れたようにこちらを見ている彼と、そしてどこかおどおどしている彼と。合計で3人ものクラスメイトが、自分の為に時間を使ってくれている。名前が今ここで自分の気持ちを口にすれば、それは彼等の好意を無駄にすることと同義だった。そう思うと、自分の意見を口に出す気にはどうしてもなれなかった。正直なところ憂鬱な気分は晴れない上に心の準備もまるで出来ていないけれど、それでも名前は元気いっぱいの彼に向けてこくんと頷いてみせた。

「よっし!行こうぜ、名字!」
「は、は、はい……っ」

またしても超至近距離から田島に話しかけられた名前は、盛大にどもりながらどうにかそう答えた。顔が熱くて仕方がなかった。廊下を行き交う生徒達の間を縫うようにして歩きながら、この場にいない千代に心の中で助けを求める。

(た、助けて千代ちゃん……っ!)

田島と約束する場面を間近で見ていたからなのか、千代は”野球部の部室で会おうね”というメールを送ったきりで9組の教室に姿を現すことはなかった。そんな彼女を責める資格が自分にないことは分かっているけれど、それでも名前は”千代ちゃんが来てくれたら良かったのに”と思った。男子が苦手な自分にとっては、部室までのそう遠くない距離でさえ長距離マラソンを走っているような気分だった。

名字、大丈夫か?……何か、すげえ顔してっけど」
「ひゃあ!」

完全に思考の海に漂っていた名前は、自分の少し前を歩いていた男子に話しかけられた瞬間に肩を跳ね上げさせた。悲鳴を上げたのは完全に反射だ。それは自分が物思いに耽っていたというのもあるけれど、どちらかといえば男子に話しかけられたというのが大きかった。どうして自分はいつもこうなのだろうと思いながら、名前は目を丸くしている男子に対して何度も何度も頷いた。

「だ、大丈夫……です!えっと、あの……っ」
「オレ?泉だよ。泉孝介。まあよろしくな、名字
「よ、よろしく……。えっと、泉くん……」
「ん。……にしても、本当に大丈夫なのかよ?お前の今の表情、まじで酷えぞ」
「まじで!?名字、具合悪いのか?」
「ほ、本当に大丈夫です……っ」

ずいっと詰め寄って来たのは田島だった。彼は前を歩いている猫背の男子と何やら話をしていたはずだが、こちらの話も聞こえていたのだろう。田島の行動に驚きながらも、名前はぶんぶんと首を横に振った。実際これは本当だった。

「き、緊張してただけ、だから……。だって、あたしは野球のことを何も知らないし……」
「あー、そういうことか。ま、そんなに気負わなくてもいいと思うぜ。野球初心者なのはお前だけじゃねえからさ。3組の西広って奴なんだけど、野球は高校から始めるんだとさ」
「そう、なの……?」
「そうそう!野球に詳しくなくても大丈夫だって。オレも教えてやるからさ!」
「え、お前が?」

怪訝そうに言葉を発したのは泉だった。はあっと呆れ交じりの溜息をついた彼に、田島が人差し指を突き付けながら吠えた。

「あ、何だよその目は!お前、オレのことバカにしてるだろ!」
「別にバカにしてるわけじゃねえよ。ただ、田島に先生役なんて務まんのかって思っただけだ。何かお前って説明下手そうだし、やっぱり無理なんじゃねえの?まだ花井の方が適役だろ」
「やっぱりバカにしてんじゃん!」
「うるせえよ。……つか、名字と一緒にいた奴が”教える”って言ってたじゃねえか。そいつに任せておけばいいだろ」
「そいつじゃなくて篠岡だよ。……泉の言うことも分かるけどさー、先生は何人いたっていいだろ?名字はオレが先生じゃ不満か?」
「う、ううん……。お、お願いします……」

田島の勢いに押された名前は、おずおずと頷いた。別に不満というわけではないが、彼が先生だと思うと何となく憂鬱な気分になるのは何故なのだろう。

(田島くんはあたしの為を思って言ってくれたのに……。あたし、最低だ……)

田島のことが嫌いなわけでは断じてない。だけど、確かに名前は”田島くんが先生だなんて憂鬱だ”と思ってしまったのだ。そんなことを考えた自分自身を、名前は心の中で激しく責め立てた。

名字、オレも教えるからな。田島だけじゃ色々な意味で怖え」
「あ……。ありがとう、泉くん……」
「ん。……あ、名字。言い忘れてたけど、こいつは三橋な。三橋はピッチャーなんだぜ」
「……オ、レ……。み、三橋……廉、です」

名前は、小さな声で名前を名乗った三橋に目線を移した。どこかおどおどとした雰囲気が全身から滲み出ている男子だ。

(三橋くんって……。何か、あたしと似てる、かも……)

”自分と似ている”。それが、彼に改めて自己紹介された時に名前がまず思ったことだった。声が小さいことといい、その話し方といい、その雰囲気といい。自分は黒髪で向こうは茶髪、性別と外見こそまるで違うけれど。けれどそれでも、三橋という男子はまるで自分を鏡で映したかのような人間だと名前は思った。

「よ、よろしくね、三橋くん……!」
「……し、しくお願いします……。んと、名字……さん」

やっぱり言葉がつっかえた三橋に対して、名前はもう一度「よろしくね」と言った。泉に挨拶をした時より声がしっかりしたものになったのは、三橋から滲み出ている雰囲気が自分にとっては少しも怖くないからだ。少なくとも、この場にいる3人の中では断トツで彼が話し易い男子と言い切れるだろう。

「はいはーい!オレは田島な、名字!」
「……っ!」
「オレ、田島悠一郎!」

そしてこの中では断トツで話しにくい男子である田島に話しかけられた名前は、石のように固まった。これは自分の問題で、断じて田島のことが嫌いというわけではなかった。ただ、彼はやたらと距離が近いのだ。今だってそうだ、その必要がないのに彼は立ち止まって、すぐ目の前で自己紹介をしているわけで。前者はともかく、後者は自分にとっては心臓に悪過ぎる。そんな田島の態度に困惑と羞恥を覚えた名前は、困り果てながらじっとこちらを見ている田島を見つめ返した。

(か、顔が近いよお……っ!)

本当は目を逸らしたかったのだけれど、彼がそれをさせてくれないような気がしてならなかった。彼の顔を見上げてからどれくらいの時間が経ったことだろう。田島よりはずっと常識的な距離で自己紹介をした泉の深い溜息が、名前の鼓膜を震わせた。眉間に皺を寄せている泉は、盛大に呆れているように見えた。

「あのなあ、田島。そんなに言わなくたって、名字だってお前の名前は知ってるっつの。なあ、名字
「う……。は、はい……」
「ほらな、オレの言う通りだったろ。そんなに連呼しなくてもいいんだよ」
「だってさあ。篠岡にはもう言ったけど、名字にはオレの名前、ちゃんと言ってねえんだもんよー。名字はオレらのマネージャーなんだし、こういうのってちゃんとしてえじゃん?……だからさ、名字。これからよろしくな!」

頭の後ろで手を組んだ田島が、眩しいくらいの笑顔でそう言った。相変わらずの近過ぎる距離に依然として顔を赤くさせた名前は、三橋や泉にした時とは段違いの小さな声で「はい」と返した。そう言った後で、言葉が足りていないことに気が付いた。彼は「よろしく」と言ったのに、自分はというと短く返事を返しただけだ。

「こ、こちらこそ……。よろしくお願いします……」
「…………」
「えっと……」

それは丁寧に挨拶したというのに、田島が動く様子はなかった。つい今しがたまでは確かに太陽が輝くような笑顔を見せていたはずの彼からは、どういうわけかその笑みが綺麗さっぱり消えていた。田島は眉根を寄せている。まるで何かを考え込んでいるような、はたまた怒っているようにも受け取れる表情だった。

「た、田島……くん?……あたし、何かしちゃった……?」

いったいどうしたのだろうか。強い不安に駆られた名前は、そっと彼の名前を口にした。そして、慌てて言葉を付け加える。もし彼が今怒っているとしたら、それはきっと自分の所為だ。

名字は何もしてないよ、ちょっと考え事してただけ。もうそれも終わった!……っていうか、考える必要がなくなった!」

一転して嬉しそうに笑った田島を、名前はおずおずと見つめた。何もしていないとはっきり言われたが、それは果たして本当なのだろうか。自分の所為で彼に気を遣わせたのではないだろうかという考えに囚われた名前は、田島が自分の名をどうやって呼ばせそうかと思案していたことを知る由もなかった。

「た、田島くんは……」
「んー?どした、名字
「お……。怒って、ないの?」
「オレが?怒ってないよ。名字は何も悪いことしてねえんだからさ、気にすんなよな!」
「う、うん……」
「田島!お前なあ、紛らわしいことすんじゃねえよ!考え事をすんなとは言わねえけどさ、時と場合を考えろよな!三橋が泣きそうじゃねえか!」
「何で三橋が泣きそうなんだ?オレ、ホントに怒ってねえよ?……怒ってねえどころか、すげえ嬉しいって思ってる!」
「た、田島、くん……。嬉しいって、何で……?」
「それは内緒!……あ、やべえ!もうこんな時間か!」

当然の疑問を口にした三橋に対して上機嫌に内緒だと言った田島は、携帯の時計を見た瞬間に表情を変えた。名前も彼に倣って時計を見る。割と余裕があったはずなのに、気付けば部活が始まる時刻になってしまっていた。田島の名前を口にしたことが彼を喜ばせたという事実に気付かない名前は、「急がないと監督にどやされる」と言って走り出した3人の後を必死になって追いかけた。