あの夏 : 001
太陽のような人
「……名前ちゃん!名前ちゃんってば!」篠岡千代の声で、ぼんやりとお弁当を食べていた名字名前ははっと我に返った。おそるおそる顔を横に向けると、心配そうな表情をしている友達が目に映る。その事実を認識した瞬間に名前は顔をさあっと蒼褪めさせた。せっかく友達が自分に話しかけてくれたというのに、まるで話を聞いていなかったのだ。右手に持っていた箸を乱雑に置いた名前は、両手を合わせてぺこぺこと頭を下げた。
「ご、ご、ごめんなさいっ!あ、あたし……。眠くてぼうっとしてて、千代ちゃんの話、何も聞いてなくて……っ!ほ、本当にごめんなさいっ!」
「そ、そんなに謝らないで名前ちゃん!名前ちゃんがぼうっとしてるから、どうしたのかなって思っただけなの!私は全然気にしてないから、名前ちゃんも気にしないで?」
「本当だからね」と念を押すように付け加えた千代は、にこにこと笑っていた。その裏に嘘や他意など微塵も感じさせない、笑顔そのものの表情だ。そんな友達の顔をまじまじと見つめていた名前は心の底からホッとした。中学生時代をいつも1人で過ごしていた名前にとって、千代は久し振りに出来た友達だと言える。せっかくの友達を失うことは何としても避けたい。高校入学したての今なら尚更だ。
「う、うん……。あたし、もう気にしないから……」
「うんうん!もうお昼だもんね、眠くなっちゃうよねー。……ねえ、名前ちゃんのクラスは後2時間何をやるの?」
千代にそう尋ねられた名前は、心の中でそっと涙ぐんだ。この教室には、黒板の横に大きく時間割が貼ってあるのだ。それを見れば訊かずとも答えが分かるというのに、だけど千代はわざわざ自分に訊いて来た。それはつまり、彼女はこんな自分と話したいと思ってくれていることに他ならないわけで……。
(うう……。千代ちゃんに会えて良かった……)
名前がこんなにも優しい千代と出会ったのは、まさにここ・西浦高校を受験する日のことだった。不運にも筆箱を落とした拍子に鉛筆の芯を全て折ってしまった千代をどうしても放っておけなくて、勇気を出して尖った芯の鉛筆を差し出したのが始まりだった。受験が終わった千代にものすごく感謝された名前は、彼女にお願いされてメルアドを交換したのだ。孤独だった名前に、数年振りの友達が出来た瞬間だった。今でも事ある毎に「名前ちゃんは私の恩人だよ」なんて千代は言ってくれるけれど、彼女の方が恩人だと名前は思っている。千代からのメールで、いつだって1人だった自分はどれ程救われたことか。
「……名前ちゃん?えっと、大丈夫?食べ終わったらすぐ寝る?」
「だ、大丈夫!……えっと……。あたし達は国語と科学、だよ……っ」
「そうなんだ!私達は数学と英語なんだよー。英語はまだいいけどさ、数学は苦手だからもうやんなっちゃう!名前ちゃんは数学、どう?」
「あ、あたしも数学は苦手なの……。テストはその、いつも50点以下で……っ」
赤点こそ奇跡的に取ったことがないものの、お世辞にも数学テストの点数がいいとは言えない名前は顔を赤くさせながらぼそぼそと呟いた。笑われてもおかしくはない点数を暴露したというのに、だけど千代は笑わなかった。笑うどころか、彼女はうんうんと何度も頷いている。
「名前ちゃんも数学が苦手なの!?わー、私と一緒だね!私もだいたいそれくらいなんだ。本当、数学って難しいよねー」
「う、うん……。本当、そうだよね……!」
「ねえねえ、じゃあ名前ちゃんの得意科目は?」
「えっと……。現国と、家庭科かなあ……」
「すごいね、家庭科が得意なんだ!私、現国はともかく家庭科って全然ダメなんだよねー。もし良かったら、今度教えてくれると嬉しいな!」
「う、うん。あたしで良かったら……」
現国と家庭科は、名前が辛うじて得意科目だと言える教科だった。果たして自分如きが教えられるかは甚だ疑問だったが、せっかくの千代がそう言ってくれているのだからと名前はこくんと頷いた。
「……ところで名前ちゃん。名前ちゃんは何の部活に入るの?」
「え?……ぶ、部活……?」
「うん!だって西浦って、部活は強制加入でしょ?私はね、野球部のマネージャーになるつもりなの。中学ではソフトボールをやってたんだけど、実は高校野球にずっと憧れててねっ。だから、高校では絶対野球部のマネージャーになろうって決めてたんだ!」
「そ、そうなんだ……」
「うん!……だから、どう?名前ちゃんも一緒にやらない?野球部のマネジ!」
「……え」
お弁当の最後の一口を飲み込んだ名前は、思ってもみなかった友達からのお誘いに身体を硬直させた。もしかしたら聞き間違えたのかもしれない。そんな考えが、頭の中をぐるぐると支配する。そうであって欲しいと名前は強く願った。
「野球部のマネージャーって……。その、あたしが……?」
「そうだよ、名前ちゃんが!私と一緒に、だよ!!」
「えええっ!?」
聞き間違いなどではなかった。一緒に野球部のマネージャーにならないかと、確かに千代はそう言ったのだ。
(野球部の……マネージャー……)
確かに千代が言った通り、名前が通う西浦高校は文武両道を謳う所為か部活に強制加入することを義務付けられているのだ。もちろんそのことは承知していたけれど、自分の性格上きっと文化部に入るに違いないと名前は思っていた。もう一度”野球部のマネージャー”という単語を胸中で呟いた名前は、さっきのそれとは比べ物にならないくらいに顔を蒼褪めさせた。
(千代ちゃんの気持ちは嬉しい、けど……)
千代が一緒の部活に入ろうと自分を誘ってくれたことは素直に嬉しい。それが文化部であったなら、きっと一も二もなく頷いていたことだろう。だけど千代は野球部のマネージャーになるのだと声高に宣言したのだ。千代のことは友達だと思っている名前だけど、彼女が入りたがっている野球部に一緒に入る気にはなれなかった。それが例えマネージャーという形だったとしても、産まれてからこの方スポーツに馴染みのない名前にとって、運動部に入るという選択肢は最初から存在していないわけで。思わず名前は立ち上がった。
「なあなあ!今野球部って言った?野球部のマネージャーになんの?」
「そんなの無理だよ」と続けようとした名前は、口を半開きにしたまま固まった。後ろから話しかけて来たのは声からして完全に男子だ。心臓を高鳴らせながら、名前はどうしようと心の中で繰り返し呟いた。背後にいる男子に何をされたというわけではないけれど、男子が近くにいると思うだけでどうしても落ち着かなくなってしまうのだ。
「うん、言ったよー。私、篠岡千代っていうの!えっと……」
「オレは田島!田島悠一郎!!オレ、昨日入部届出して来た!よろしくな、篠岡!」
「うん!これからよろしくね、田島くん!」
”田島悠一郎”。その名前に聞き覚えがあった名前は、2人の会話をどこか遠くで聞きながら身体を更に硬直させた。昨日あったクラス内での自己紹介で、一際元気があって声も大きかった男子だ。そういえば、田島は野球部に入って甲子園に行くのだとクラス中に響き渡るような大声で宣言していたような気がする。
(野球部には田島くんがいるんだよね……。やっぱりあたし、野球部のマネージャーなんて絶対無理だよ……っ!)
野球部の人達は皆声が大きくて、いかにも体育系の人間が集まるところだということを、名前は今になって思い知った。最初から分かっていたことだけれど、やっぱり自分にはマネージャーなどとても務まりそうもない。そもそも自分は、野球のルールに詳しいどころかほとんど知らないと言ってもいい程に野球に縁がない人間なのだ。千代ならともかくとして、自分は色々な意味で野球部のマネージャーには相応しくないと断言出来る。長い時間をかけて硬直から復活した名前は、今度こそはっきり断ろうと飲み込んだ言葉を言いかけて、けれど声にならない声を上げた。千代と話していたはずの彼が、いつのまにやら自分を覗き込んでいることに気付いたのだ。
「なあ、さっきから何で固まってんの?」
「ひゃああっ!?」
「って、あれ?また固まっちった。……なあ、お前の名前は?」
首を傾げながら田島が名を尋ねて来たことは分かっていたが、名前は彼に名乗る余裕を微塵も持ち合わせていなかった。男子に免疫のない名前にとって、超が付く程の至近距離で話しかけて来る田島の存在はまさに爆弾そのものだったのだ。名前すら名乗れずに固まる自分に助け船を出したのは千代だった。
「あのね、田島くん。その子は名字名前ちゃんっていうんだよ。私の友達で、一緒にマネジになろうって誘ったところなの!」
「ん、そっか!名字、お前もマネージャーになるんだろ?」
「え……?ええええっ!?あの、ちが……っ」
「お、戻ったな!……何だよ、ちゃんと喋れるんじゃん!」
「きゃああっ!」
同い歳の男子に肩を叩かれた。その事実を認識した瞬間、名前の口からは悲鳴が飛び出した。悲鳴を上げた所為でクラス中の皆の視線を集めていることを悟って、全力でしゃがみ込む。顔中どころか耳まで赤くさせた名前は、ぶんぶんと首を横に振った。
「ち、ち、ち……!」
「ち……って、血!?もしかしてどこか怪我したの、名前ちゃん!?」
「ち、ちが……っ!あ、あたし……っ!」
「何か名字って、三橋みたいだなー。……おーい三橋!女版のお前がいたぞー!」
「オ、オレ……っ!?」
「三橋。田島はお前を呼んだだけで怒ったんじゃねえんだから、そんなにびくつくなよな。田島、お前もそのくらいにしておいてやれよ。そいつ、オレ達と同じクラスの名字だろ?……”昨日の自己紹介で、女子の中で一番声が小さかった奴”ってお前が言ってた女子だよ」
「あー!言った言った!よく憶えてたなー泉」
「あれだけ連呼されりゃあ嫌でも憶えるだろ!ってか、お前はその女子の名前も憶えてねえのかよ!脳みそどうなってんだ!」
「しょうがねえじゃん。あの時の名字の声ってホントに小さかったんだもんよー」
頭上に聞こえる複数の声の主達は、もしかして野球部のチームメイトだったりするのだろうか。自分そっちのけで何やら言い争いを始めた男子達のことも気になるが、名前は野球部のマネージャーをどうやって断るかに意識を集中させていた。そう、自分はまだちゃんと断れていないのだ。意を決した名前は深呼吸をした。
「あ、あたし……っ!マネージャーにはなれない、です……っ!」
「え、やんねーの?何で?一緒に野球部で頑張ろーぜ!」
勇気を振り絞って言ったはずの言葉は、自分が放ったそれよりずっと大きかった田島の言葉にものの見事にかき消された。間髪入れずに理由を問われるとは思ってもみなかった名前は一瞬怯んだものの、それでも気合を入れて言葉の続きを口にする。これは自分にしか分からないことなのだ。
「だって、あたし……。や、野球には詳しくなくて……っ」
「大丈夫だよ、名前ちゃん!ルールなら私が教えるから!一緒にマネジ、やろ?きっと楽しいよ!」
「……あ、あの、千代ちゃん……っ」
断り文句を間違えたことに名前が気が付いた時には既に遅かった。さっきは自分を助けてくれた千代が、それは大きな期待を込めた目で自分を見つめている。千代の茶色い瞳はきらきらと輝いていた。そんな友達の目線にとうとう屈した名前は、おずおずと頷いた。本当は泣きたいくらいに怖かったのだけれど、自分をそこまで強く誘ってくれている友達の気持ちを無碍には出来なかったのだ。それに、こちらをじっと見つめている田島の視線も気になって仕方がなかった。
「本当!?ありがとう、名前ちゃん!」
「よっしゃあ!じゃあ放課後、一緒に部室に行こうぜ!……約束だかんな、名字!」
「う……。は、はい……」
自分の答に満足したのだろう、白い歯を見せて笑った田島がまたしても肩を叩いて来る。何となくだけれど、彼を太陽のような人だと名前が思った時には、既に田島はチームメイトらしき人達と共に教室を出て行ってしまっていた。
「ありがとうね、名前ちゃん!名前ちゃんが一緒なら心強いよ!」
「う、うん……。これからよろしくね、千代ちゃん……」
きっと、野球部のマネージャーとしての使命に燃えているのだろう。千代は目を輝かせながら野球というスポーツがいかに面白いのかを再度語りだしたが、名前の心境は複雑だった。野球を好きでも何でもない自分がマネージャーになったとしても、絶対にお荷物になるに決まっている……。千代ちゃんには悪いけど、やっぱり勇気を出して断れば良かった。自分の隣で話しかけてくれる千代に気付かれないようにそっと息を吐き出した名前は、1人そんなことを思った。