もっと、教えて。 : 009

懺悔
「ファイツ」

聞き慣れた単語が真上から聞こえる、それは他ならない自分の名前で。大好きな人に名前を呼ばれたファイツは、だけど何も言わなかった。思い切り背けた顔の向きも変えなかった。とてもじゃないけれど、彼の顔を見る気にはなれなくて。力いっぱい横に向けた顔を意地でも変えまいと、ぎゅうっと握り締めた手に更に力を込めた。恥ずかしさと苛立ちを茶色いソファーの生地にぶつけるかのように、思い切り睨みつけてやる。

「ファイツ。いいかげん、ボクを見て欲しいんだが」

ラクツに催促されたファイツはぶんぶんと首を横に振った。彼のことはこれ以上にないくらい好きなのだけれど、それとこれとは話が別なのだ。ファイツは深い絶望感から両手で顔を覆った。そうしなければ嗚咽を漏らしそうだったのだ。自分でも感情の起伏が激し過ぎるとは思うのだが、こればかりは仕方がなかった。

(もう最悪……。何であんなこと言っちゃったんだろう、あたし……っ)

つい先程のことだった。恋人に身体を触られて、どうしようもない程に込み上げて来る気持ちよさをもっと味わいたくて。「気持ちいいか」と問われたファイツは、素直に”気持ちいい”と答えた。そこまでならまだしも、余計なことを言ってしまったのだ。そう、”自分でした時よりずっと気持ちいい”などという、あまりにも余計な一言を。

(絶対絶対、嫌われた……っ。あたし、今度こそラクツくんに嫌われちゃったんだ……っ!)

思い切り目を瞑ったことで、ただでさえ暗かった視界が更に暗くなる。とうとう耐え切れなくなったファイツの瞳からは自然と涙が零れ落ちた。それは悲しみと怖さと後悔から来る涙だった。”1人でいやらしいことをしました”と声高に白状したにも等しい自分のことを、彼はどう思っただろうか。いや、どう思うも何もないとファイツは思った。絶対に絶対に、はしたない子だと思われたに決まっている。ラクツに触られて気持ちよくなってしまった自分がいやらしい子であることは既に認めているが、1人でいやらしいことをしたという事実は認めたくはなかった。だってだって、あまりにも恥ずかし過ぎるではないか。とにかく隠しておきたかった、それこそ永遠に心の中にしまっておきたかったのに。

「ひっく、ぐす……っ。うう……っ」
「……ファイツ」

優しい声で名前を呼ばれたと思ったら、次の瞬間には手を引かれていて。あっという間に彼に抱き起こされる恰好になったファイツは、涙を零しながら彼の温かな胸板に顔を埋めた。

「ファイツ、大丈夫だ。……大丈夫だから」

どこまでも優しい声でそう言ったラクツは、まるで子供をあやすように優しく頭を撫でてくれた。いつも通りの、自分がよく知っている彼そのものの手付きだった。先程までの雰囲気はどこへいってしまったのかと、ファイツ自身危うく尋ねかけたくらいに彼はいつも通りでしかなくて。だから、ファイツはそっと目を伏せた。彼への罪悪感で胸がずきずきと痛かった。ラクツの手付きは普段通りでしかなくて、つまりはいやらしい要素など欠片もなかったのだ。しようと思えば出来るだろうに、優しい彼はそうしなかった。多分、いや絶対に気を遣ってくれている……。

「…………」

大好きなラクツに優しく抱き締められながら、思う。ラクツはこちらの身体に触りたいのだとはっきり言った。それは、こんな自分を優しく抱き締めてくれているこの瞬間も続いているのだろうか?男の人のことはよく分からないけれど、仮に見限られていないのだとしたら自分はなんて酷い女なのだろうとファイツは思った。こんなにも自分が泣き虫な所為でこんなにも彼に気を遣わせてしまっている。優しい彼に、我慢を強いてしまっている。それは申し訳なくもあり、だけど同時にありがたくもあった。さっきまでのいやらしい行為を再開するだけの心の準備が、まるで出来ていなかったのだ。

(……どうしよう)

爆弾発言をしてしまったことを恥じて現実からいつまでも目を背けていたい自分と、こうなったら四の五の言わずに好きに触ってもらおうと言い張る自分と。ファイツの心の中では、2人の自分が勝手に言い争いを始めていた。

「……?」

うんうんと頭を悩ませて、いつまでも終わらない言い争いをどこか他人事で遠巻きに眺めていた時だった。熱い何かが太ももに当たっていることに気付いて、不思議に思ったファイツは何だろうと身動ぎした。そこまで強く抱き締められていたわけではなかったこともあって、思ったより簡単に身体は離れた。ファイツは何気なくその熱の正体を確かめようとして、そして見事に固まった。答らしきものに一瞬で行きついたのだ。

「ファイツ、どうした?大丈夫か?」

ファイツが固まってしまった傍らで、ラクツはやっぱりその優しさを発揮してくれていた。押し黙ってしまった自分を心配してくれたのか、気遣うような言葉を発してくれたのだ。しかし優しさの塊である彼に何を言うでもなく、ファイツは唇を開いたり閉じたりという何の意味もない行為をただただ繰り返していた。顔が沸騰したように熱くなる。目は、彼の”それ”に縫い付けられたままだ。逸らそうとしてもどういうわけか逸らせなかった。

「いったいどうし……」

そこまで言いかけたラクツは、だけどそこで口を噤んでしまった。自分の視線を彼もまた辿ったのだろう。自分程ではないにしろ、困ったように眉根を寄せた、実に気まずそうな顔をしている……。

「……ファイツ、その……。……すまない」
「あ、あ、あ!……あのね……っ」

頭を下げたラクツと向かい合ったファイツはわたわたと腕を動かしながら慌てた。彼に謝らせるなんて、いったい何をやっているのだろうか。謝らなければいけないのは、自分の方なのに。

「ラクツくん、あの……っ。だ、だからね……っ」

必死に言葉を紡ぐファイツだが、だけど何とか発した言葉は上手く繋がらなくて。ファイツは何をやってるんだろうと心の中で呆れた。言葉にならない言葉を発しておいて、何が”だからね”なのか。

「……不可抗力とはいえ、本当に悪かった。断じて故意に押し当てるつもりはなかったんだが」
「そ、そ、それって……っ。その、やっぱりラ、ラクツくんの……っ。え、えっと、だからっ…………!」

散々恥ずかしい姿をラクツに見せておいて、今更何を恥ずかしがっているのだろう。自分でもそう思うのだけれど、どうしても”それ”の名前を口にすることが出来なくて。ファイツは彼の言葉と視界に映る光景に、ただ顔を赤くさせるばかりだった。

「……ああ。ファイツを見ていると、堪らなく興奮して……な」
「……っ」

例によって察してくれたのだろう。いつの間にやら顔を上げていた彼がはっきりと名称を言わないでくれたことを素直にありがたいと思いながら、だけどファイツはまじまじと”それ”を見つめた。胸をどきどきとさせながら、ごくんと音を鳴らして唾を飲み込む。興奮しているのは自分だって同じだ。

「あれ……?えっと、ラクツくん……」
「ん……。どうした?」
「何か、さっきより大きくなってるように見えるんだけど……」

「あたしの気の所為?」と呟いたファイツは、とある一点を見続けていた。男の人の象徴である”それ”から、どうしても目を逸らせなかったのだ。

「……まあ、ボクも男だからな。とはいえ心から愛する娘のそんな姿を間近で見せられれば、ボクでなくともこうなるとは思うぞ」

こともなげに肯定したラクツは、困ったように笑いながら指で「ほら」とこちらを指し示した。そんな彼に倣って、ファイツも自分の身体に目を落とす。しわくちゃになってしまったラクツのシャツは腰の辺りで辛うじて引っかかっている程度で、下着に覆われていない両胸が露わになっている有様だった。やっぱりそれ程大きいとは思えない胸の先端は、どう解釈しても硬く尖っているように思えてならない。おまけに、刺激によって赤く色付いていた。確かにいやらしい、とファイツは思った。同時に隠しておきたかった秘密を自ら暴露した記憶が鮮烈に蘇って、瞳には自然と涙が溜まる。

「”心から愛する”って……。本当……?」
「ああ。当然だろう?」

涙でぼやけてしまった視界に、ラクツの顔が映り込む。見間違いでなければ彼は何を言っているのかという顔をしていたのだけれど、どうしたって不安と恐怖は拭えなかった。

「でも……。こんなあたしでも?……だって、こんなにいやらしい子なのに……っ。ひ、1人で……えっちなこと、してたのに……っ!」

自己嫌悪の感情が、堰を切ったように溢れ出る。耐えられなくなったファイツはまたもや泣き出した。例外だったのは最初だけで、後は自らの意思で胸の先端を弄ったのだ。一度や二度ならまだしも、最終的に何度弄ったのかは自分でも憶えていない。口から勝手に飛び出したあまりにも赤裸々な告白を、ラクツは黙って聞いてくれていた。

「それに、あたしは……っ」

蘇るのは今から少し前の、具体的にはお風呂から上がった時の記憶だった。快く貸してくれたシャツとズボンからは、所持していたラクツの匂いがして。だからファイツは、”大好きな彼の匂いに全身を包まれている”とホッとしたわけで。だけど安心感に包まれたのは最初のうちだけで、ファイツの全身はすぐに熱くなってしまったのだ。長くお風呂に入り過ぎた所為でのぼせたのだろうとその時は解釈したのだけれど、今では違うとはっきり言い切れる。何のことはない、ファイツもまた興奮していたのだ。

「あたし、あたし……っ!胸だけじゃなくて、こっちも触ったの……っ!」

まだ下着に覆われている、誰にも触らせたことのない大切な場所。そこを震える人差し指で示して、ファイツは涙ながらに告げた。のぼせたというのも本当だけれど、ラクツが貸してくれたズボンは確かに生地が厚くて、それで熱がこもったのだろう。そう考えたファイツはせっかく借りたズボンを脱ぐことにした。そしてそのままソファーにだらしなくも身体を預けていたのだが、涼しさと開放感を抱いたのはやっぱり最初のうちだけだった。何故なのかは分からないけれど、突如として生まれた秘められた箇所を触りたいという欲求にどうしても勝てなくて。だからファイツは、人差し指でその場所に触れたのだ。そっと擦った瞬間に、”気持ちいい”と強く思った。片手で数えられるだけの下着越しの行為は、とてつもなく気持ちよかった。

「……そう、か。そうだったのか……」

沈黙の後で静かに紡がれたラクツの言葉で、両肩がびくんと跳ねる。彼に何を言われるのだろうと思うと、堪らなく怖かった。

「1人で触って……。”気持ちいい”と思ったんだな」
「そう、なの……っ。気持ち、よくて……っ!あたし、あたし……っ」

最早告白というよりかは懺悔に近い行為を、涙ながらに吐露する。まさに今自分が座っているこの場所で、ファイツは1人いやらしいことをしたのだ。シャワーを浴び終えたラクツが姿を現すまで、どうしようもない気持ちよさと罪悪感に襲われていた。

「ラクツくんの家で、1人でこんなことして……。いやらしい子で、ごめんなさい……っ」

涙をぽろぽろと流しながら、ただひたすら頭を下げ続ける。視線は下に向けたままだ。怖くて堪らなくて、大好きな人の顔を見ることも出来なかった。どうしようもなく臆病で、どうしようもないくらい自分勝手で、おまけにどうしようもなくいやらしくて。彼の言葉通り、本当に自分は悪い子だとファイツは思った。

「あたしの、こと……。嫌いになったでしょう?」
「どうしてそう悪い方向に捉えるんだ、キミは。むしろ惚れ直したくらいだ」
「う……。嘘……っ!」

ファイツは耳を疑った。思わず、顔を上へと跳ね上げる。信じられない言葉を発したラクツは、信じられないことに微笑んでいた。

「ご、ごめんねラクツくん……っ。気を遣わせちゃって……」
「気を遣っているわけではないぞ。何せ、ボクも同じだからな」
「ふえ……っ?」
「キミは自分自身をいやらしいと評したが、ボクだって同じだ。むしろ、キミ以上にいやらしいと言えるな」

ファイツは瞳を瞬いた。彼の言葉が理解出来なかったのだ。”自分がいやらしい”って、何が?

「ファイツが今晩訪ねて来る直前まで、ボクも自身を慰めていたからな。……キミを想って」
「え……っ」
「それだけじゃない。キミの入浴中にも自室にこもって慰めていたし、ここ最近はほとんど毎晩のように行っていた。罪悪感よりも本能やら快楽の方が強くて、どうしても欲求に抗えなかった」

ファイツは瞳を大きく見開いて、そして呼吸すらも忘れて、まじまじとラクツを見つめた。あまりの衝撃で、いつの間にやら涙が途切れていることに気付いたのはかなり時間が経った後だった。穏やかな彼が、優しい彼が、だけど自らを慰めていたのだと言う。

「…………」

困ったように笑ったラクツは、”それ”を指差していた。指先に釣られてファイツもまた彼の性別の象徴に目を留める。その瞬間に心臓はどきん、と強く高鳴った。どうしても名前を言えそうにない”それ”は、さっきより更に大きくなっているように見える……。

「ラクツくんも……。ラクツくんも、触ったの?」
「ああ」
「1人で……えっちなこと、してたの?……き、気持ちいいって思ったの……?」
「ああ、数え切れない程にな。……ほら、キミと一緒だろう?」
「…………」

相変わらず困ったように、だけど穏やかに微笑んでいるラクツを、ファイツはおずおずと見つめた。彼の言葉が心の中に深く染み渡る。あれ程怖かったはずなのに、心が重苦しかったはずなのに、今ではそれが嘘のように軽いと感じるから不思議なものだ。

「…………こんなボクを、軽蔑したか?」

ファイツは慌てて首を横に振った。何度だって思うけれど、自分は彼のことが大好きで堪らないのだ。そんな彼を軽蔑するなんてとんでもないとばかりに、ぶんぶんと首を横に振る。

「……ありがとう。ボクも同じ気持ちだ。惚れ直すことはあっても、軽蔑出来るわけがない」
「そっか……」
「……しかし……。これは、参ったな。どうしたものか……」
「どうしたの?」
「ん?ああ……」
「ひああんっ!?」

何の前触れもなく訪れた刺激で、ファイツの腰がびくんと跳ねた。シャツによってどうにか隠れていた場所を、ラクツに優しくなぞられたのだ。たったひと撫でされただけなのに、だけどどうしようもなく気持ちいいと思ってしまった。自分で触った時より、ずっとずっと気持ちよかった。

「や……っ。そ、そんなにすりすりしちゃ……ひゃああんっ!」
「無理難題を言わないでくれ。あんなに可愛いことを言われて、ボクが何もしないでいられると思うのか?」
「か、可愛いって……」
「まさか、キミが1人で自分を慰めていたとは思わなかった。……本当、可愛いな……っ」
「きゃうんっ!」
「声も可愛い。本当は優しくしたかったが、無理そうだ……っ」

ラクツの息は荒かった。言葉とは裏腹に優しい手付きで、だけど何度も撫でられる。胸と同じく下着の生地を押し付けるようにして擦られると、ファイツの視界はちかちかと白んだ。何故だか下着がじっとりと湿っていることにようやく気付いたが、この気持ちよさの前では些細なことだとファイツは思った。

「き……。気持ちいいよぉ……っ」
「……そうか」
「うん……。気持ちいいの……。あん……っ」

ソファーに身を預けて、だらしなく足を開いて、言外にもっと触って欲しいとねだる。多分、彼からは下着が丸見えになっていることだろう。普段なら絶対にしないことだけれど、やっぱり小さなことだとファイツは思った。頭の中は、”ラクツくんに触られたい”といういやらしい気持ちでいっぱいになっていたのだ。それでも自分に対しての嫌悪感はなかった。それはラクツが一緒だと言ってくれたおかげなのだろう。

「……ラクツくん?」

痺れるような気持ちよさが止んだことで、うっとりとしていたファイツは我に返った。どうしたのかと思った次の瞬間に、身体が宙に浮いたことをぼんやりと感じ取る。

「止めちゃうの……?」
「一時中断だ。これ以上触れたら、止まれなくなるからな。この続きはベッドの上でしようか」

お姫様抱っこをしてくれたラクツが、耳元に唇を寄せて来る。「気持ちよくしてあげるからな」と囁かれて、ファイツはこくんと頷いた。緊張と期待と興奮で、胸を曝け出した時より何倍も胸がどきどきとして、思わずはあっと深い吐息を漏らした。