幸せの在処 : 009

これからもずっと、あなたの隣で。
”あれ、何かがおかしい”。カーテンの隙間から射し込む光で目を開けたファイツがまず思ったのは、まさにそれだった。目が覚めたばかりで頭は上手く働いてくれないけれど、明らかに何かがおかしいのだ。慣れ親しんでいる愛用の布団とは違う色をしているそれに軽く首を傾げ、そして自分の真上にある天井をぼんやりと見つめてまた首を傾げ。違和感を深めながら何となく自分の右を見たファイツの、やっぱり寝起きによってぼんやりとした視界に、ふと”ある人物”が映った。

「おはよう、ファイツ」

そのある人物は優しい声でそう言って、やっぱり優しく微笑んでいた。聞き覚えがあり過ぎるその声に、そして見覚えがあり過ぎるその表情に。それら2つのあまりにも見覚えがあり過ぎる要素に思わずごしごしと目を何度も擦って、ファイツはよく見えるようになった瞳で改めてそのある人物をまじまじと見つめた。どう見てもそのある人物というのはラクツその人だった、ファイツが世界で一番大好きな人だ。目が覚めた自分の隣に大好きな人がいるというのも確かに驚いたが、それ以上にファイツを驚かせたことがあった。彼は上半身に服をまとっていなかったのだ。その事実に、ファイツは勢いよく顔の向きを戻して自分の上半身を見つめた。自分の上半身も、彼同様に何も身にまとっておらず肌を思い切り晒していた。それどころか、自分の全身がそうだったことに今更ながらに気付く。自分達がどうしてこんな状況におかれているのか、その理由をファイツがようやく思い出したのは、その数秒後だった。

「きゃあああああっ!」

完全に覚醒したファイツの口から、音が勝手に飛び出した。大好きなラクツとしたあんなことやこんなことが頭の中に稲妻のように駆け巡って、あまりの恥ずかしさに思い切り目を瞑る。そうした数瞬後に胸元が彼に丸見えだったことに気付いて、彼の布団を勢いよく首の辺りまで引っ張り上げた。そうしてから、仰向けだった身体の姿勢を左向きに変える。

「……ファイツ。予想通りの可愛らしい反応を見せてくれたことは嬉しいが、ファイツがこちらを向いてくれた方がボクはもっと嬉しいと感じるんだ。……ボクとしては、そうしてくれるとありがたいんだが」
「そ、そ、そんなの無理だよ……っ!」

ラクツの苦笑混じりの言葉に、ファイツは盛大にどもりながら返す。とてもじゃないけれど、今は彼の望みを叶えてあげられそうもないとファイツは思った。彼の希望通りにするということは、即ち右を向くということなのだ。そうなると必然的にラクツと向かい合うわけになるのだけれど、だけどそれが今の自分には到底無理な話なのだ。

「”無理”って……。何故無理なんだ?」
「だ、だって!……だって……っ!は、恥ずかしいんだもん……っ」
「……恥ずかしい、か。どうして恥ずかしいんだ、ファイツ?」
「そ、そんなの分かってるでしょう・…っ?」

ファイツは涙目になって自分の後ろにいる彼にそう言い放った。ラクツは自分のように鈍い人間ではないのだ、むしろものすごく鋭い人間だと言っても過言ではない程だ。そんな彼が自分の言いたいことに気付かないはずがないし、今の言葉には明らかにこちらをからかうような響きが含まれていた。つまりラクツは、恥ずかしいと感じるその理由をわざわざ言わせようとしているのだろう。その証拠に「さあ?」ととぼけられてしまって、ファイツはますます涙目になった。例え彼がそれを望んでいるのだとしても、やっぱり恥ずかし過ぎて自分には出来そうもないとファイツは思った。”あなたとえっちをしたからです”なんて、とても口に出して言えそうにない……。

「……ひゃあっ!?」

突然背中を彼の指で撫でられる感覚を覚えたファイツは、それと同時に声を上げた。またいやらしい声を上げてしまったと思うと、どうしても恥ずかしくなる。今更だと自分でも思うのだけれど、やっぱり恥ずかしいと感じてしまうのは仕方のないことだとも思うのだ。

「やあ……っ。んん……っ、ラクツくん……っ!」
「何だ、ファイツ?」

急に自分の背中を指で繰り返し撫でられることになったファイツは、恥ずかしさとくすぐったさに身を捩らせながら彼の名前を呼んだ。本当に分からない、どうして彼はこんなことをするのだろう?

「そ、それはこっちが訊きたいよお……っ。ど、どうしてこんなことするの……っ?」
「どうしてと訊かれても、ファイツの背中に触れたくなったからに決まっているだろう。何しろ昨日はそれが出来なかったからな。だが、キミが無防備に背中を向けてくれたおかげでそこも感じやすいということが分かった。これは新たな発見だな」
「やあん……っ!」

彼の爪で軽く引っかかれるように背中に触れられて、ファイツは思わず肩を跳ね上げさせながら上擦った声を出した。やっぱり自分の上げた声はいやらしいものにしか聞こえなくて、顔面だけに留まらず耳まで真っ赤にしながらファイツはひたすら彼から与えられる刺激に悶えていた。

「ラ、ラクツくん……っ。お願い、背中はもう止めて……っ!くすぐったいよお……っ!」
「ファイツがそう言うならまあ止めてもいいが、代わりに別のところに触れさせてもらうぞ」
「あん……っ。そんなあ……っ……!……い、意地悪……っ」
「ファイツが悉く可愛い反応をするのが悪い。……そうだな、キミがこちらを向いてくれるなら今日のところは引き下がってもいい。……ボクとしてはキミの身体に触れるというのも堪らなく魅力的に感じるわけだが、どうする?」
「…………」

そう言うと、ラクツは指で背中を撫でるのをぴたりと止めてしまった。彼と一糸まとわぬ姿で向かい合うのも恥ずかしいけれど、こんな朝っぱらからいやらしい声を上げるというのも恥ずかしい。どちらが自分にとってまだ恥ずかしくないかを必死に考えたものの、結局ファイツは彼と向かい合うことを選んだ。それだってとんでもなく恥ずかしいのだけれど、それでもご近所さんに迷惑をかける可能性がないだけまだいいだろう。昨日のも含めて散々意地悪をされたお返しに、ちょっとだけ睨みつけることにしよう。そう決めて深く息を吸ったファイツは、意を決して身体の向きを右に変えた。すると、微笑んでいるラクツの顔が視界いっぱいに映し出される。

「やっと、ボクの方を向いてくれたな」
「…………っ」

恨みがましいと思ったから、ちょっと睨みつけてあげようとファイツは決めていた。だけど彼の笑顔を見た瞬間に、そんなことは頭からすっかり吹っ飛んでしまっていた。あまりにも優しい声でそんなことを言われてしまって、思わずファイツはこくんと頷いた。自分でも意志が弱いと思うのだけれど、これはもう仕方ない。あんなに優しい声でそう言われてしまってもまだ睨みつける気になれる程、自分は彼を恨みがましいと思ってはいないのだ。

「お、お、おはよう……っ」

そういえば朝の挨拶を返していなかったことをようやく思い出して、ファイツは恥ずかしさから盛大にどもりながらそう言った。一瞬だけ目を見開いたラクツは、すぐに柔らかく目を細めて頷く。そんな何でもないことで、だけど自分の心臓はどきどきどきと激しく高鳴ることになったから、ファイツは何だかずるいと心の中で呟いた。

「ああ。おはよう、ファイツ」
「あ……っ」

そう言いながら手を伸ばした彼に身体をそっと引き寄せられて、ますますファイツの熱は高まった。昨日だって思ったけれど、そうされるとますます彼が男の人であるという事実を目の前に突き付けられるような気になってしまう。そう、彼はまさしく男の人だった。そう思うと自分が昨晩口走った色々な言葉達が頭の中に浮かんで来て、もう痛いくらいに心臓が高鳴る。口走った言葉に嘘偽りはないけれど、だけどやっぱり恥ずかしいとファイツは思った。もう恥ずかし過ぎて堪らない、穴があったら入りたいくらいだ。その代わりに両手で顔を覆うと、途端に彼の自分を咎めるような声が鼓膜を震わせる。

「こら、ファイツ。顔を隠さないでくれ」
「で、でも……。恥ずかしいんだもん……っ」
「いつまでもそのままでいるなら、ボクにも考えがある。またキミの身体に触れさせてもらうぞ、今度は胸を触る」
「……そ、そんなあ……」

弱々しく言葉を漏らしながら、ファイツは顔を覆っていた手をゆっくりと離した。流石に朝っぱらからまたあんなことをされるのは勘弁して欲しかった。別に触れられるのが嫌だというわけではなくて、単純に恥ずかしかったのだ。

「ラクツくんの、えっち……」

彼にはそう告げたけれど、だけどいやらしいのは自分の方だと思った。今でも信じられない、自分があんなにいやらしい人間だとは思わなかった。彼とした、あんなことやこんなこと。そして自分が口走ったあんな言葉やこんな言葉がまた脳内を目まぐるしく駆け巡って、思わず口元に手をやった。

「仕方がないだろう、惚れた女に触れたいと感じるのは当然のことだ。ボクだって男なんだぞ?」
「……うん」

小さく頷いて、手の下で唇を軽く噛む。紛れもなく彼は男の人でしかなくて、そして自分は紛れもなく女なのだ。その事実は、ファイツの心臓をまたどきどきと高鳴らせた。

「まだ朝も早い時間だし、ボクはもう少しこのままでいたいと思っている。ボクにこうされるのは、嫌か?」
「……ううん」
「そうか。……じゃあ、もう少しくっついていようか」
「……うん」

ファイツは、ラクツの言葉にまた頷いた。やっぱり恥ずかしいと思ったけれど、それでも彼とくっついているとどうにも幸せな気持ちになるのだ。だからおずおずと微笑んでみたところ、ラクツがゆっくりと顔を近付けて来るのが見えて。あっという間にラクツに唇を重ねられたファイツは、静かに目を閉じた。

(本当に、幸せだなあ……)

数秒間の、触れるだけのキスを何度も彼と交わす中で、ファイツはただ幸せを感じていた。ラクツくんを好きになって良かったと、声に出さずに呟く。心の底から感じる幸せでとろけるように微笑みながら、ファイツは”これからもずっとずっとラクツくんの隣にいたい”と思った。