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臆病者の恋
”彼女を護りたい”。ファイツを庇った時、ラクツの頭に在ったのはそれだけだった。あの時助けを求められたから護るのではない。彼女が保護対象だから護るのでもない。その行動に理由などなかった。護りたいから護った。……ただ、それだけのことだった。* * *
声が、聞こえる。その声に導かれるように、ラクツは目を開ける。
「…………」
太陽の光で目が眩んだが、瞳は閉じない。視界に映った彼女まで一緒に消してしまいそうだったからだ。
「…………」
ファイツは花瓶を持ったまま立ち尽くしていた。彼が目を開けるのを待っていた。この瞬間を待ち続けていた。目が合ったら謝ろうと何度も思った。”怪我させちゃってごめんね、護ってくれてありがとう”。まず謝って、それからお礼を言いたかった。しかしファイツの口から出てきた言葉は、そのどちらでもなかった。
「ラクツくん」
自分は最初に謝るべきだし、謝りたいと思っていたはずなのに。それなのに、彼の名前しか出てこなかった。
「ラクツくん、ラクツくん……っ!」
彼は自分のことを忘れてしまったのかもしれない。自分が名を呼んでも微動だにしないラクツを見て、ファイツは怖くなった。自分は彼の記憶まで奪ってしまったのだろうか?不安を払拭するように、彼の名を必死で呼び続ける。
「ラクツくん。あたしのこと……分かる?」
震える声で問いかける。答が返って来るのが恐ろしかった。長い長い沈黙に耐え切れなくなったファイツは俯くが、不意に感じた温かさに顔を上げた。
「!」
ラクツに手を握られている。
「ラクツくん!?」
彼が目を覚ます前は散々自分から手を握っていたが、それはラクツの意識がなかったからだ。今は気恥ずかしくて堪らない。慌てた彼女はラクツを見た。彼の唇が動くが、ファイツには上手く聞き取れなかった。
(声が上手く出ないんだ……)
考えてみれば2週間も目を覚まさなかったのだ。耳元でなら声が聞き取れるかもしれないと思ったファイツは、手を握られたままラクツの顔を覗き込んだ。次の瞬間、強い力に引っ張られる。
「きゃあ!!」
突然のことに抵抗が出来るはずもなく、ファイツはそのままラクツの上に倒れ込む。勢いで花瓶が滑り落ち、粉々に砕け散った。
「ラクツくん!あの……!!」
すぐに離れようとしたが、ラクツはそれを許さない。
(何でこんなこと……!)
パニックに陥ったファイツは今度こそ抵抗を試みる。けれど、どうしてもラクツから離れられなかった。彼の筋力は多少なりとも落ちているはずなのに。それでも諦めなかったファイツだが、自分が更に強く抱き締められていることにようやく気が付き、抵抗を緩める。
「…………」
仕方なく、ラクツが自分を離すまでおとなしく待つことに決めたものの、ファイツの心臓はおとなしくなどならなかった。いつまでこうしていればいいのと胸中で叫んだ時、耳に掠れ声が届く。
「……生きてる」
「……え?」
訊き返す少女をようやく解放して、ラクツは彼女と目を合わせる。眼前にいるのは、自分が護った少女。何においても護りたかった少女だ。彼女は温かかった。心臓の鼓動が、ちゃんと聞こえた。
「……生きてるな」
「……うん」
問いかければ、ファイツはゆっくりと頷いた。
(……良かった)
自分のことを憶えていてくれた。生きていてくれた。目を覚ましてくれた。
「本当に良かった……。ラクツくん……」
* * *
「……だから、ボクは気にしていないと言っただろう。何度言えば分かるんだ?」
最後の方は溜息混じりに告げる。しかし、ファイツの顔は明るくならなかった。それどころか、今にも泣き出しそうな始末だ。
「でも……。あたしがラクツくんの言うこと、ちゃんと聞かなかったから……。だから、あんなこと……っ」
「ボクの怪我はボク自身のミスだ。こんな任務に就いているんだ、怪我なんて日常茶飯事だ」
そう言い聞かせても、彼女は納得する様子を見せない。
(……相変わらず頑固だな)
おとなしくて目立つのが嫌いなファイツだが、人の言うことに全て頷く程従順な人物ではない。自分の譲れない事柄に関しては、ラクツも呆れるくらい頑固だった。どうやら、”悪いのは全て自分”だと思っているらしい。どう言葉をかけるべきかラクツが悩んでいると、ファイツはまたも「ごめんなさい」を繰り返した。彼女の口からその単語が出て来るのは何度目だろうか。最早数える気にもならなかった。
「ボクの方こそすまなかった。医者に聞いたが、キミはずっと傍にいてくれたんだろう?……ありがとう」
「うう……。……うわあああん!!」
ファイツはとうとうしゃくり上げる。瞳からは大粒の涙が零れた。
「お、おい……」
ラクツは大いに慌てる。元々女に泣かれるのは好きではなかった。今まで”おつき合い”をした少女は皆別れる時に泣いていた。捜査の為にそうせざるを得なかったとはいえ、泣かせたことに心を痛めたのは事実だ。
(どうすればいい……?)
ラクツは焦っていた。ファイツが泣いたという事実だけで、自分の心は簡単に乱される。彼女には泣かれたくない。笑って欲しかった。どうすれば彼女が笑ってくれるか思考を巡らすが、その光景が浮かばない。
(……それもそのはずだ)
考えてみれば、彼女は自分に笑顔を見せてくれたことがほとんどなかったのだ。引くか怯えるか、彼女が自分に見せる反応はだいたいその2択だ。正体を明かしてからはそれに嫌悪も加わった。3人娘に笑いかけることはあっても、自分の姿を認めた途端に彼女の笑みは消えてしまう。
「…………」
そっとしておくのが正しいのかもしれない。だが、今のラクツにはそうする気にはなれなかった。ファイツが泣いているのに、ただ黙って見ていることなど出来なかった。
「……泣き止んでくれ、ファイツ」
彼女は身を震わせる。気安く名を呼ぶな。そうファイツに言われたことをラクツは思い出した。失言だった、と眉間に皺を寄せる。自分は今、彼女の名を呼んだのだ。……しかも、呼び捨てで。ラクツは目を伏せる。割れた花瓶が、床に散らばった花が視界に移った。
(……グラシデアか)
たった一度だけ、ファイツが自分に笑いかけてくれたことがあった。自分が正体を隠していたあの頃、彼女がまだ自分に嫌悪感を向けない頃のことだ。
『ねえファイツちゃん。バトルの練習するんでしょう?ボクと組まない?』
『え……!何であたしと……!?』
『組みたいなって思ったから。それとも、ボクと2人なんて嫌?』
『べ、別に……。あ』
『じゃあ、いいよね?ファイツちゃん』
そう言って強引に近付く。いつもの手だった。
『あ……。グラシデアがこんなに咲いてる……』
『自己紹介の時に言ってたね。好きな花だって』
『うん。好きな人が、あたしにくれた花だから』
そう言ったファイツは笑っていた。花が咲くように、嬉しそうに。
『……ボクも好きだな』
『え?』
『……グラシデアの花がね。綺麗だなって、ボクも思うし』
深い意味などなかった。ただ、自分の言葉をごまかそうと思って付け加えただけ。何故そう思ったのか、あの時は分からなかった。
(……憶えていてくれたのか)
「…………」
ファイツの目から流れる涙は止まらなかった。彼女を泣かせたくなかった。笑って欲しかった。
けれど自分では、彼女を笑わせることは出来そうもない。ファイツの心に触れたいのに、拒絶されるのが怖かった。
(臆病だな、ボクは)
自分自身が、本当に臆病だとラクツは思った。