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愚か者の恋
「……ラクツくん!ラクツくん!!」目が覚めた時、最初に浮かんだのは彼のことだった。プラズマ団の攻撃から自分を庇うラクツ。その光景が、頭から離れない。
「ファイツ。気持ちは分かるが、ここは病室だ」
「あ……」
誰かに肩を叩かれて、ファイツは我に返った。ラクツからゆっくりと離れる。
「ハンサムさん……」
「キミも怪我をしているだろう。ゆっくり休むべきだ」
「……でも!!」
ファイツの目はラクツに注がれたままだ。幼子のように首を振る彼女を見て、ハンサムは溜息をつく。
「ラクツくん、あたしの所為で怪我したのに!あたし、あたし……っ!!」
ファイツは泣きじゃくる。医者は命に別状はないと言った。大怪我。生きている。……しかし。
「どうしよう……。ラクツくんがもし……」
そこから先は言葉にならなかった。考えるだけでも恐ろしかったが、次々と不安が生まれて来る。
「警視どのは大丈夫だ。じきに目を覚ますさ」
ハンサムは安心させるように告げたが、彼女の様子は変わらない。ファイツは目を伏せた。
「……あたし、ラクツくんを看病します。ラクツくんが目覚めるまで、ずっと傍にいます。少しでも何かしてあげたい……!!」
そう言ってハンサムを見る。その瞳はどこまでもまっすぐだった。
「……お願いします、ハンサムさん!!」
ハンサムはしばらくファイツを見つめていたが、やがて深い息を吐いた。この少女は、自分がダメだと言ったところで聞く耳を持たないだろう。
「分かった……。好きにするといい」
「ありがとうございます!」
上司に報告すると言って病室を出たハンサムに深々とお辞儀をして、ファイツはラクツの手を握った。
「ラクツくん……。ごめんね」
そう呟いても、彼の反応はない。けれどそれでも、その手は温かかった。彼が、生きている証拠だ。
(ラクツくん……!!)
涙が止めどなく溢れて来るが、無理やり拭う。泣いてもラクツが目覚めるわけではないのだ。少しでもいい、何か自分に出来ることをしたかった。
「しっかりしろ、あたし!」
両頬を思い切り叩いて気合を入れる。今はとにかく、ラクツのことしか頭になかった。
* * *
ファイツが目覚めてから1週間が経過した。ラクツの調子は依然として変わらない。自然に目が覚めるのを待てと医者は言うものの、ファイツは焦るばかりだった。回復したフタチマルと共にひたすら待つしかない。
「ラクツくん……」
彼の名を何回呼んだか分からない。手を握って名前を呼べば、眠りについた王子様は目を覚ます。昔、プラズマ団の団員が読み聞かせてくれた童話を思い出した。けれどあれは物語で、現実はそう上手くはいかないのだ。
(何考えてるんだろう……。こんな時なのに……)
現実逃避している場合ではないと分かってはいるものの、ファイツは思考するのを止められなかった。こんな時だからこそかもしれないと、ついに諦めたファイツは想いを馳せた。
(あたしに優しくしてくれたプラズマ団。ポケモンを”解放”するプラズマ団。あたしを裏切り者だと罵って、攻撃したプラズマ団……)
そのどれもが同じ組織で、しかしファイツにはそう思えなかった。それはきっと、自分が属していたからだ。自分はプラズマ団の身内だったから、皆は優しかったのだ。あの日まで、ラクツが自分を庇ったあの瞬間まで、ファイツはプラズマ団の一員であることに何の疑問も持たなかった。周囲はプラズマ団を悪と言うから隠していたけれど、もしクラスにプラズマ団員がいたら、嬉々として正体を明かしたに違いない。
プラズマ団で過ごした日々は、ファイツにとって大切な思い出だった。確かに幸せだった。けれど、今は到底そうは思えなかった。同じ思い出なのに、ファイツは自分が不幸だと思っていた。
”ボクがキミを護るから”。真剣な面持ちで彼が正体を告げた日。その日のことを、ファイツはよく憶えている。忘れる方が無理だった。クラスメートでしかなかったはずの人物が国際警察の警視だなんて、とただ困惑した。それと同時に湧き上がって来たのは怒りだった。
”信じられない。だって、あなたはあたしを騙していたのよ?そんな人の言うことなんて、信じられるはずがないじゃない!”……口を開いた第一声が、これだった。他にも最低だの大嫌いだのと……とにかく自分は彼を罵ったのだ。彼の事情を聞きもせずに、彼がどんな気持ちで自分に告げたのかを知ろうともせずに。
信じてあげられなくてごめんね、とファイツは心の底から後悔した。すぐには無理でも、理解しようとする姿勢を見せるべきだったのだ。そうすれば、少なくとも彼だけは無事だったはずである。彼が自分の代わりに怪我を負うこともなかったのだ……。本当に不幸なのは彼じゃない、とファイツは自分を嘲った。
(目が覚めたら、一番に謝らなくちゃ……)
彼の目を見て、ちゃんと謝りたい。ファイツはラクツの回復をただ祈った。
* * *
自分に出来ることなんて、ただの1つもないのではないか。2週間も経った頃、ファイツはそう思っていた。……否が応でもそう思わざるを得なかった。1日に何度も何度も名を呼んで、声をかけ続けた。けれどそれでも……ラクツの容体は一貫として変わらなかった。
「ファイツ、もっと寝た方がいい。酷い隈だぞ」
ハンサムが自分を心配してくれていることは知っている。その気持ちは嬉しいが、静かに首を横に振った。
「……ちゃんと寝てます」
「日にどれくらいだ」
「数えてないです。今はラクツくんの方が大事だもの」
嘘ではなかった。実際自分は寝ている。けれどそれは、半ば気絶と言っていいものだった。気が付くと意識を失っていて、ふとした音で覚めるのだ。
「そのままでは倒れるぞ」
「ラクツくんが起きるなら……あたしはどうなったっていいです」
ハンサムは内心舌打ちする。自分も出来る限りここに来ていたが、ファイツ1人に任せきりだったと反省した。
「それに……。正直なところ、寝たくないんです」
「バカな!寝る間を惜しんで警視どのの傍にいるつもりか!?」
声を荒げた後で、ハンサムはここがどういう場所であるかを思い出した。軽く咳払いをして、次の言葉はなるべく声量を抑えようと努める。
「……そんなことは警視も望んでいない」
「何故、そうだって言い切れるんですか」
静かな声だ。ハンサムは目を見開く。
「あたしを庇ってラクツくんは怪我をしたんですよ?だったらせめて、あたしに出来ることは何でもしなきゃ……」
「……ファイツ、キミは自分を責め過ぎている。今回のことは断じてキミの所為ではない。キミは被害者の側であって、悪いのは……」
「プラズマ団、ですか。それじゃああたしは加害者ですよね。あたし、元プラズマ団ですから」
「…………」
まずい流れになった、とハンサムは冷や汗をかいた。生憎、自分は上司のように頭の回転が良くない。口も上手くない。
「……学校はどうなんだ、ファイツ。皆、心配して……」
「チェレン先生には休学すると連絡しました。戻る時はラクツくんと一緒です。ラクツくんの正体、皆は知ってるんですよね」
「む……。致し方あるまい、状況が状況だ」
「……本当、あたしって……」
どう見ても自嘲しているファイツを見て、どうもおかしいとハンサムは疑問に思った。責任を感じ過ぎているのではないだろうか。
「いったいどうしたんだ、ファイツ?キミは……」
言葉の先を言いかけたところで、コツコツと窓を外から叩く音がした。ムクバードの脚に手紙が括り付けられている。病院では電子機器が使えない為、ハンサム宛の指令は全て伝書鳩でやり取りをしていたのだ。
「……任務が入った」
「どうか気を付けてください」
そう言うファイツの目には輝きがない。彼女をここまで追い詰めたのは自分の判断ミスもあると、ハンサムは眉間に皺を寄せた。
「すまない……ファイツ」
「謝るのは、あたしの方です」
どうか、早く目を覚ましてくれ。ただ祈ることしか出来ない自分が歯痒かった。病室を後にするハンサムを、ファイツは黙って見つめていた。
「寝たくないなあ……」
彼女の呟きを聞いたのは、フタチマルとダケちゃんだけである。彼らの頭を撫でてから、ファイツはラクツに向き直った。寝るのが怖かった。確かに身体は疲弊しているのだが、出来ることなら寝たくなかった。
(だって、寝ると夢を見るんだもの……)
夢の内容は決まって同じだった。プラズマ団の皆と平和に過ごしている自分。そうかと思うと場面はすぐに切り替わり、ラクツが自分に正体を明かす。そして、あの時と同じ状況になってしまう。これは夢だと理解しているファイツの目の前で、ラクツは怪我を負うのだ。それも一度や二度ではなかった。自分の悲鳴で飛び起きたのも数え切れない程だ。あのシーンを視るのは嫌だった。その度にファイツの心は痛み、悲鳴を上げた。けれどこれは罰なのだ。自分の言葉の所為で、彼は……。
* * *
『ファイツちゃん。ボクがキミを騙していたことは謝る。キミにはすまないことをした』
ああ、これは夢だわ。ファイツは直感で思った。また自分は、あの時の場面を夢で視ているのだ。
『謝っても意味ないわ。どうせ口だけなんでしょう?』
違う、とファイツは思った。自分が言うべき言葉はそれじゃない。あたしの方こそ怒ってごめんね、と謝罪したかった。けれど、声が出なかった。どんなに叫んでも、その声は”ラクツ”には届かない。目を伏せる”ラクツ”に気付かずに、”ファイツ”は告げるのだ。
『いい?あたしはあなたのことなんて全然信用してないんだから。ちゃんと分かってる?』
何て酷いことを言う女だろうと、ファイツはまるで他人事のように感じた。そんな自分を責めるわけでも弁解するでもなく、”ラクツ”はただ頷くだけだ。その淋しそうな顔を見て、胸が締め付けられた。そして、あの日の出来事が目に映る。
『ファイツちゃん、1人で出歩くと危険だ。最近プラズマ団の動向が激化していることは知っているだろう。裏切り者であるファイツちゃんが狙われる確率は高い』
『気安くあたしの名前を呼ばないでよ!』
何もかも憶えている。”ファイツ”は彼に対して怒るのだ。
『……すまない』
「何よ!名前くらいいいじゃない!!」
ファイツは思わず叫んでいた。自分自身に怒りが湧いた。今はおかしいと感じる余裕すらなかった。そして、こんな時にだけ出る声にも腹が立った。
『キミはボクが護る。例え襲われたとしても、キミには怪我を負わせない』
『そんなこと絶対ないわ。だって、プラズマ団の皆があたしを襲うなんて、あり得ないもの』
”ファイツ”を見て、ファイツもまた笑う。しかしその顔に浮かぶのは冷笑だ。自分は何て愚かなのだろう。どこまでも自分を嘲笑したかった。
『キミは分かっていない。彼らの恐ろしさを理解していない』
『あなたに何が分かるのよ!!』
この時、”自分”は怒っていた。何も知らない癖に、勝手に決めつけないでと思ったのを憶えている。プラズマ団は悪くないと擁護した”ファイツ”は次の瞬間、ラクツに抱き抱えられた。先程まで”自分”がいた場所に電気が直撃して地面が焼け焦げた。そこから先の展開は知っていたファイツは目を覆いたかったが、身体が動かない。まるであの時の”自分”のようだった。
『な、何するのよ!』
『プラズマ団だ。キミを狙って来たらしい。ボクがあいつを倒すから、キミは安心してくれ』
『何かの間違いだわ。……だって、プラズマ団はあたしの……』
しかし、歩み出した”ファイツ”は固まった。そこで初めて殺気を向けられていることに気が付いたのである。恐怖で足が竦んだ。現実を受け入れられない”あの日の自分”は、愚かにも呟いたのだ。”助けて、ラクツくん”、と。
信じていないと何度言っただろう。嫌いだと何度口にしたことだろう。それなのに……愚者は一言、助けを求めたのだ。決して言ってはならなかった言葉を、その対象に向かって。少女の目に映ったのは青色だった。彼の服の色で、自分が一番好きな色だ。そして次の瞬間、ファイツの視界は赤で染まり……。
* * *
「あたし……」
ファイツは身体を起こす。やはり自分は眠っていたらしい。
「…………」
出来るなら、あの日に戻りたいと思った。あの瞬間をやり直したかった。
「……バカみたい」
ラクツはまだ、起きない。彼を見ていると、胸がずきずきと痛んだ。
(きっと……あたしのこれは”罪悪”だわ)
ファイツは自分に言い聞かせる。胸の痛みは強くなるばかりだ。
(そうに決まってる。それ以外にないもの)
ファイツは目を背けた。こんな気持ち、赦されるはずがない。その資格がない。愚か者の自分は、彼にこんな感情を抱いてはいけないのだ。……やっぱり自分は愚か者だ。ファイツはそう、強く思った。