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ミステリアス・ハート
少年は目を開ける。職業からか体質か、彼の眠りは元々浅い。けれど、近頃はあまりにそれが顕著だった。体調は万全だ。マジシャンに頼んだメディカルチェックには、手持ちのポケモンを含めて何の異常も見受けられない。むしろ日頃の鍛錬の成果か、以前より高い数値が現れていた。肉体的に問題がないとすれば、原因は1つしかない。「……参ったな」
このままでは、任務に支障が出る可能性が大いにある。それだけは、避けなければならない。どんなことでもそつなくこなす完璧少年、付いたあだ名が”ミスター・パーフェクト”。しかし今の自分は、それとは程遠いように感じられた。
* * *
「どうしよう……」
そして同じ頃。トレーナーズスクールの女子寮で、少女は1人悩んでいた。
「……やだなあ。困ったなあ」
何故自分は断らなかったのだろうか?実際、断るチャンスは幾度もあった。それらしい理由をつけて断れば良かったのに、彼女は結局そうしなかった。
「でも、あんな訊き方されたら断れないわよね……」
少女は眉根を寄せる。彼女の脳裏に数時間前の出来事が蘇った。
* * *
『ええええええ!?』
狭い部屋に叫び声が木霊した。思わず耳を塞いだ彼女達を見て、少女は慌てて謝る。
『ご、ごめんなさいっ!』
『びっくりしたあ……』
『謝らなくてもいいわよ。急な話だし、驚いたでしょう?』
『それは……』
少女は胸に手を当てる。心に受けた衝撃の所為か、彼女の鼓動は早くなっていた。
『……そうですよ。あたしがモデルに、それも彼と一緒にだなんて……』
よりにもよって彼と一緒だとは。ふと彼の反応が気になったファイツは隣にいる少年を見てみるが、表情は変わらない。平然そのものだ。
『…………』
『もちろん強制はしないけど。でもあなた達なら、きっと絵になると思うの。だからどうかな?ファイツちゃん、ラクツくん』
『ボクはいいですよ』
『!』
『本当!?』
『……ファイツちゃんはどうする?』
そう尋ねた相手を今度は正面から見つめる。一目で喜びの感情が読み取れるホワイトやベル。彼女達と彼は、やはり違っていた。
『あたしは……』
そんな彼の目を見ているうちに、ファイツの思考はぼやけていった。今考えなければならない問題から離れて、どこか遠くに意識が向かう。彼の声を聞きながら、けれど心は別のことを考えていた。
* * *
ファイツは彼、ラクツが苦手だった。自分を見かける度に”好きだよ”と言い、笑顔を向けて来る彼。それは他の女の子には言わない台詞で、けれど軽々しく言うものだから、殊更彼が信じられなかった。ラクツの印象が少しだけ変わったのは、ファイツが転校して来てから少し経った後。彼は裏庭で手持ちのフタチマルと訓練していて、その顔は真面目そのものだった。軽く見える彼にもあんな顔が出来るんだ、とファイツはラクツをほんの少しだけ見直した。
少女の正体が少年にばれたのはそれから1ヶ月後のことだった。不覚にも落とした宝物から、ひた隠しにしていた少女の正体はあっさりとばれた。ファイツを糾弾するヒュウの怒声を聞きつけたのか、ラクツは彼らの間に入った。女の子に掴みかかるのは良くない、とヒュウを諌めた後、彼は笑顔でファイツに告げた。
”ファイツちゃんが例えプラズマ団でも、ボクは気にしないよ。それは過去のことだし、ファイツちゃんはポケモンが大好きな…普通の女の子じゃないか”
まさかそんなことを言われるとは思わなくて、ファイツは戸惑った。そしてそれ以上に、彼女は嬉しかった。プラズマ団にいたという過去を否定しなかった彼の言葉が。そしてその気持ちは、そう告げたラクツの印象をも完全に変えた。
その日からファイツは彼に話しかければ笑顔で話すようになった。誘われればお茶もした。告白だけは断っていたが、それは決して嫌悪感からではなかった。恋人としてつき合うことは出来ないけれど、これからも友達としてつき合っていければいいな。ファイツはそう考えていた。プラズマ団の皆のことを彼に話して、そして彼からもいくつか質問されたが、彼女は気にも留めなかった。だって、ラクツは自分にとって信頼出来る人なのだ。
ファイツは素直な娘だった。一度でも信じた、心の中に住まわせた人間には簡単に心を開く。良く言えば一途な、悪く言えば盲目的な彼女は、成長してもなお幼かった。だから、ファイツはそうすることの危険性に、そして少年の真意に気付けなかった。
* * *
『ファイツちゃん、どうしたの?』
彼の声で、ぼんやりとしていたファイツの思考は浮き上がる。
『!』
顔を上げると、目の前にはラクツがいた。おまけに、両肩に手を置かれている。
『ファイツちゃん?』
『……きゃあ!』
状況を理解するや否や、ファイツは叫んで飛び退いた。おそらく、自分は少しの間”ああ”だったのだろう。そう考えたファイツは、そろりと彼女達を見た。ホワイトもベルも、にこにこと笑っている。……片方はむしろ”にやついている”といってもいい。
『何を笑ってるんですか』
『だって、ファイツちゃんたら可愛いんだもの。ねえ、ベルちゃん?』
『ほんとほんと!まるでブラックと一緒にいるホワイトちゃんみたいで!』
『ベ、ベルちゃん!アタシと彼は社員だって何度も言ったでしょう!?』
脱線する彼女達を見て、ファイツは合点がいった。……どうやらこの2人は、自分が彼を好きだと勘違いしているらしい。ホワイトの恋愛事情も気にはなったが、今は自分のことが大切だ。
『あの……。あたし……』
『あ!!ごめんねファイツちゃん。……どう?この話、悪くないと思うんだけど』
『ええと……』
ファイツからすれば思い切り”悪い話”なのだが、それは流石に口に出来なかった。どう断ろうか、と少女は思案する。図鑑所有者で同じ地方の先輩でもあるホワイトがアルバイトをしないかと言ってきた時は、驚くと同時に興味を注がれた。”ウエディングドレスを着て、おまけにお姫様抱っこをされる”という、恋をする少女なら誰もが夢を見る内容だった。最初は自分とブラックに話が来たのだが、どうしても外せない用事の為に代役を捜していたのだと言う。ファイツは悩んだ。内容は気になるが、何せ相手はあの彼なのだ。
『……ごめんなさい、せっかくですけどこの話……』
”やっぱりお断りします”とファイツが言いかけた瞬間、今まで静観していた少年が口を挟む。
『心配しなくても大丈夫だよ、ファイツちゃんは軽いから』
『え……!?』
ファイツは固まった。どうやらこの少年は、自分が辞退しようとした理由を”重いから”だと勝手に結論付けたらしい。……何て失礼な。
『な……!!』
『……本当だよ。ファイツちゃんは可愛いし、きっと似合うと思うなあ……ウエディングドレス』
『う……』
ドレスを着た自分と、正装した彼の姿。ほわんと浮かんできたそのイメージを、ファイツは首を振って必死に否定する。
『……それとも、相手がボクじゃ不満かな?』
『べ、別に不満なんて……』
あ、と思った時にはもう遅かった。
『そう。だったらいいよね?……ホワイトさん、その話受けますから』
『良かったわ!!それじゃあ詳しい話は後日するから。2人共、引き受けてくれてありがとう!』
今更嫌ですとは言えない。輝くような笑顔のホワイトとは対照的に、ファイツはぎこちなく頷いたのである。
* * *
「はあ……。結局、言いそびれちゃったなあ……」
きっと、今でも”自分がラクツを好き”だと2人には思われているのだろう。引き受けてしまったことでパニックになり、ファイツは否定するのを忘れていた。
「……あたし、何で断らなかったんだろう」
何度も繰り返している疑問を口にするが、それらしい答は1つしか浮かんで来ない。つまり、自分は彼の強引さに押されたのだ。以前データ集めに誘われた時と同じように。
「…………」
(変わらないなあ、あたし)
転校して来た当時より、少しは成長したとは思うけれど。流されやすいところはそのままだ。そんな自分を、彼はどう思っていたのだろうか。確かに彼は笑っていた。しかしその笑みはどういった笑みだったのか、今となっては分からない。
(情報目当てで近付いた、かあ……)
ファイツはプラズマ団の皆を想っていた。皆と過ごした日々は、彼女にとっては楽しいものだった。ポケモンを”解放”するのは善いことなのだと信じて疑わなかった彼女だが、被害者にしてみればそれは”友達”を奪われたことと同義だ。ヒュウに言われてそのことに気付いた彼女だが、楽しかったあの頃の気持ちを否定することは今でも出来なかった。……それだけは、どうしても。そして、そんな大事な思い出を彼だけは否定しなかった。そのおかげか、彼への苦手意識は少しずつ薄らいでいった。
”あの頃に戻れたらいいのに”。ふとそんな考えが浮かんできて、ファイツは笑う。その顔には浮かぶのは自嘲の笑みだ。ラクツと2人きりになると、彼女は決まってプラズマ団の皆のことを話した。被害者には悪いがファイツにとっては大事な思い出を、彼は非難も否定もせずに聞いてくれた。それが、少女には何よりも嬉しかったのだ。
……そして、終わりの瞬間は突然やってきた。これ以上ないまでに真剣な顔をした彼に、話があると呼び出されたのだ。彼を待っている間、ファイツの心臓は高鳴った。ラクツの告白に困惑しつつも、時折心臓が跳ねたのも事実なわけで。例えそれが親愛の情だとしても、ラクツを好いているという自覚はあったからだ。そんな彼女の心を打ち砕いたのは、彼女の気持ちを温かくさせる人物だった。
『あたしを騙していたなんて、嘘だよね?ラクツくん』
見知らぬ大人と共にやって来た少年から事実を聞かされ、少女は震え声で尋ねた。彼の口から否定して欲しかった。そうすれば、彼の言葉をまだ信じられる。彼を信頼出来る人だと思える。……しかし、一縷の望みは呆気なく絶たれた。
『全て本当だ。ボクは警視で、キミにはプラズマ団の情報を得る為に近付いた』
『……警視どの』
『いいんだ、ハンサム。ボクの口から言うべきだろう』
聞きたかったのは、欲しかったのは、そんな言葉じゃなかった。
『嬉しかった……のに。あなたがあの時言ってくれた言葉……。あたしはすごく嬉しかったのに!!』
それも嘘だったのだ。瞳から止めどない涙が溢れた。
『……嘘つき。ラクツくんなんて、大嫌い!』
……それ以来、彼の名は一度も口にしていなかった。数日後に起きた事件がなかったら、自分は今でも彼を嫌っていたに違いない。
* * *
「あたし……あの人のことをどう思ってるんだろう……」
静かな部屋で、少女は1人呟く。アルバイトの話を持ちかけられてから、ファイツの中で何度も繰り返されている疑問。自分は結局、彼と一緒にその話を引き受けたのだ。それからというもの、少女は少年のことを考えざるを得なかった。
「…………」
何度も言うが、ファイツはラクツのことが苦手だった。”だった”。つまりは過去形である。彼のことを避け、一度は盲目的に信頼し、真実を告げた彼を嫌いになり、最後には同じ彼に助けられた。そうした経緯を経た今、ファイツのラクツへの気持ちはただ1つだ。
確かにあの時、ファイツは彼を嫌いだと告げた。しかし、後になって冷静になると、全てが自分勝手な思い込みでしかないことに気が付いたのだ。1人で勝手に信じ込んで、勝手に裏切られたと憤慨して。ラクツに助けられたということも手伝って、自分は少なくとも彼を嫌っていないことを理解した。しかしだからと言って、彼を丸ごと信頼出来るようになったわけではない。つまり”嫌いではないが好きでもない、どちらかと言えば苦手”。何度考えても同じ結論に達し、ファイツはついに零した。
「これじゃあ最初に戻っただけじゃない……!」
正確に言えばそれは違っていた。彼をただ避けていた最初と今とでは”互いの素性を知っているか否か”という、大きな相違点がある。
「……”好き”、かあ……」
ふと、ラクツの告白が頭を掠めた。その言葉が偽りだったと知ってからは、彼に対して赤面することもなくなった。胸が高鳴ることも、絶対にあり得ない。……と。そう、思っていたのに。
「……ねえ、ダケちゃん」
友達であるタマゲタケが、心配そうに自分を見つめた。
「ダケちゃん。どうしちゃったのかなあ、あたし。変だよね?……だって、あたしは苦手なのよ?あの人のこと。でも、それなのに……」
ぎゅうっとファイツは膝を抱える。自分は彼が苦手なはずなのに、彼とのアルバイトを嬉しいと思った自分が確かに存在したのだ。それがウエディングドレスを着れるからだと納得出来れば良かったのだが、どうにもしっくり来ない。ラクツのことを考えるだけで、こんなにも胸が苦しくなる。
何故こんな気持ちになるのか、彼女には1つだけ心当たりがあったが、その先は口に出来なかった。
(きっと、気の迷いよ)
たまたま感じたときめきを、恋だと錯覚しているだけのことだ。一度そう言い聞かせてみると、不思議なことにしっくり来るような気がした。……そうだ、自分は何を悩んでいたのだろうか。
「……ファイツが好きなのは、N様ただ1人だわ。あの人に何をされたって、絶対にどきどきしたりしないんだから!……さあ、頑張らなきゃ。ふぁいとふぁいとファーイツ!!」
プラズマ団は彼女の居場所そのものだった。ポケモンは友達だと笑顔で語るNは、同じくポケモンが大好きだったファイツにいい印象しか与えなかった。そして幼い彼女は初めて抱いた感情を持て余し、それを見事に恋愛感情であると誤認してしまった。少女が本当の恋に気付くのは、もう少し後のことだ。