育む者 : 011
ミステリアス・ガール
ラクツは自作の料理を前にして、しかしそれらには手を付けずに眼前の娘を見つめていた。別に空腹感を覚えていなかったというわけではなかった。むしろ、自分でも珍しいことに早く食事にありつきたいとすら思っていたくらいなのだ。普段食に関してあまり頓着しないラクツだが、朝昼共にまるで食べていないこともあってこの時ばかりは流石に空腹感を抱いていた。それでも皿に手を伸ばさなかったのは理由がある。意地を張っていたわけでももちろん人間の三大欲求の1つである食欲に抗おうとしていたわけでもなくて、椅子に座ったきり微動だにしないファイツのことが単純に気になったのだ。向かい側に座る彼女は例によって口を半開きにしたまま、テーブルにところ狭しと並べられた料理の数々を穴の空く程見つめている……。「……ファイツくん」
あまりにも微動だにしない娘のことが流石に気になって仕方なかったラクツは、彼女の名前を呼んでみた。どう考えても1mと空いていない距離だ。それなのに何の反応も見せずに相変わらず料理を凝視しているこの娘の態度で、眉間には自然と深い皺が刻まれることとなった。
(……何をそこまで凝視することがあるのだろうか。まったく、理解に苦しむな)
ラクツは感じたことそのままを声に出さずに呟いた。そう、ファイツは”こちらの理解の範疇をとにかく超える娘”なのだ。大通りを彩る桜並木に見とれていた際の彼女にも同じようなことを感じたものだが、振り返ってみれば桜に見惚れるというのはまだ納得出来る理由だった。何せここは、はっきりとした四季が存在するイッシュ地方なのだ。春は色とりどりの花が咲き、夏は日差しが照り付け、秋は燃えるように木々が赤く色付き、冬は雪が降り積もる地方だ。それにこの地域に植えられている桜はどうやら咲く時と咲かない時の差が激しいようで、運が悪いと数年単位で見られないのだから。そのことを唐突に思い出したラクツは、あの時の彼女が硬直したのはまだ理解出来るなと考えを改めた。国際警察官として各地を飛び回っている自分にとっては最早見慣れた花でしかない桜も、彼女にとっては春を印象付ける事象として色濃く残るのだろう。それに桜という花は、いかにも女性が好みそうな形と色をしているのだし。
しかし、と思う。彼女が今現在穴の開く程見つめているのはただの料理であって、間違っても桜ではないのだ。それに腹の虫があれだけ鳴いていたのだからまず間違いなく空腹であるはずなのに、食事にまったく手を付けないというのはいったいどういうことなのか。ラクツは石のように硬直している娘のことを、本当に理解出来ないと思った。もっとも、そう思うのは今に始まったことでもないのだが。
「…………」
心に浮かんだ”この娘は本当に理解不能だ”という思考が苛立ちに変わるのに、そう時間はかからなかった。基本的に感情を理解する機能が欠如しているラクツだが、例外的に不快感や苛立ちといった一部の負の感情はどうにか理解出来るのだ。その辛うじて理解出来る数少ない感情である苛立ちが、時間の経過と共に急激に募っていく。
”今一度この娘の名を呼ぼう。それでもし何の反応も見せなかったら、すぐにでもこの家を後にしよう”。多分、食事に手を付けない自分達に気を遣ってくれたのだろう。行儀良く待っているフタチマルを始めとしたポケモン達には悪いが、ラクツは密かにそう決意した。現在進行形で空腹感を覚えているのは確かだ、だけど不快な思いをしてまでこの娘と食事を共にしたいとは思わなかった。今は待機中である身とはいえ、これでも自分は歴とした警察官なのだ。時間を無駄に浪費するのは出来ることなら避けたかった。
「ファイツくん」
「は、はいっ!!」
抱いた決意は、しかし現実のものになることはなかった。ファイツがどこか過剰とも言える反応を見せたからだ。名前を口にした直後に勢いよく顔を跳ね上げさせたファイツに向けて、ラクツは盛大な溜息を送りつけてやった。顔と同時に肩も跳ね上げさせるという顕著な反応を今ここでするくらいなら、最初に名を呼んだ時に普通の反応をして欲しかった。
「え、えっと……。な、何!?」
「…………ボクも流石に空腹感を抱いている。何故キミがそこまで料理を凝視していたのかは知らないが、早く食事に手を付けたいんだが」
「ご、ごめんなさいいいっ!」
一度は”何はこちらの台詞だ”と文句をつけようとしたラクツだが、更に時間を浪費したくはないと矛を収めることにした。それでも沈黙から何かを感じ取ったのだろう、ファイツは一瞬で涙目になった。同時にぺこぺこと頭を下げて「ごめんなさい」を繰り返す彼女を目の当たりにしたラクツの心には、やはり負の感情が浮かんだ。何というか、この娘はいちいち謝罪が大袈裟なのだ。こちらとて何度も謝って欲しいわけでもないのだし、もっと堂々としていればいいのにと思う。わざわざ忠告してやらないけれど。
「その、あの!……どれを最初に食べたらいいのかなあって、すっごく迷っちゃって……っ!」
「……なるほど、そういうことか。ようやく疑問が氷解した。ならばキミが凝視していたことにも頷けるな」
「……はえ?」
「それではこの身で証明しようか。ファイツくん、ボクの皿に料理を適当に取り分けてくれないだろうか。手間だろうが、出来れば全種類の料理を取り分けてもらえるとありがたい」
「う、うん……?」
そう告げて、何も乗っていない皿を彼女に渡す。首を傾げながらも言われた通りにしてくれたファイツに「すまないな」と謝罪を入れる、彼女自身の手で取り分ける部位を選んでもらわなければ意味がないのだ。皿に乗ったスパゲッティを一巻き分と、野菜の炒め物を少々、更には鶏肉の塊を始めとした手料理の数々を一瞥して、ラクツは息を吐き出した。それはもちろんこれから行うことを憂いたのではなくて、我ながらよくぞここまで数々の料理を作ったものだという感嘆の溜息だった。味見ではなく食事を行うのだからと「いただきます」を口にした後で、皿に乗った料理を無造作に口内に放り込んでいく。かなり空腹だったこともあって、皿と口内は程なくして空になった。
「……この通り、ボクは何も盛っていない。だから、何から食べても大丈夫だ」
とりあえず胃の中に食物を収めたことである程度食欲が満たされたラクツは、眉間に刻んでいた皺の数を無意識に減らしながらそう告げた。同時に再び何も乗っていない状態に戻った皿を指差しつつ、保険も兼ねて「味の保証は出来ないがな」と言葉を付け加えることも忘れない。もちろんきちんと味見は行っているし、こうして時間を置いてから口にしてもなお手料理に対する問題点が特に思い浮かばなかったのだが、人はそれぞれ味覚が違うのだ。念には念を入れておいた方がいいだろう。
「あの、ラクツくん」
「何だ?」
「……”盛る”って……。何を?」
「…………」
思ってもみない言葉を返されたことで、毒見を済ませたばかりのラクツは盛大に脱力した。身を持って自身の潔白と料理の安全性を証明したにも関わらず、あろうことかファイツにはこちらの意図がまるで伝わっていなかったらしい。小首を傾げるファイツを前にして、彼女は本当に奇想天外な娘だと強く思う。”盛る”の意味が分からないのはいくら何でも問題なのではないだろうか。そこから説明しなければならないのかと、ラクツは何だか頭を抱えたい気分になった。
「言わないと分からないのか……。薬や毒の類に決まっているだろう」
「え……っ」
「一応断っておこうか。ボクはキミが眠っている数時間、ただひたすら料理していただけだ。誓って不埒な真似は行っていない。何ならダケちゃんにでも訊いてみるといい。もっとも、マフォクシーに訊くのが確実で手っ取り早いと思うがな」
「え……。ラクツくんも、やっぱり読まれちゃったの?その、テレパシーで……」
「ああ、玄関先で思考を読まれた。……それにしても、マフォクシーがキミと住んでいるとは思わなかった。見たところレベルも高いようだし、よく鍛えているようだな」
玄関先でこのポケモンに思考を読まれたのは記憶に新しいと、ラクツは自分の左側にいるマフォクシーに視線を向けた。目が合った途端にあからさまにそっぽを向かれたが、ラクツは特に何も思わなかった。料理をしている最中だけは、いや正確に言えば味見をしている最中だけはやたらと擦り寄って来たことを思うと扱いに随分と差があるようにも思えるが、そういう性格のポケモンもいるだろう。
(マフォクシーにとって、ボクは眠っている”おや”を運んでいた得体の知れない人間でしかない。それにも関わらずこの距離でも臨戦態勢を取らないとなると、自分の実力に余程自信があるのだろうな。……この目付きと仕草からしてメスか。性格はまだ不明だが、多少なりともきまぐれではあるらしいな)
料理に追われていてそれどころではなかったラクツは、このポケモンの観察にようやく着手出来たと息を吐いた。何せマフォクシーはイッシュ地方ではまず見かけないポケモンだから、ずっと気にしてはいたのだ。ファイツの鞄から拝借した鍵でこの家に足を踏み入れた時は本当に驚いた。出くわすなりエスパータイプであることを活かして思念を読まれたこと自体には、特に驚かなかったのだが。
「マ、マフォクシーさん!!お客さんの思考を読んじゃダメだって、いつも言ってるでしょうっ!?」
「…………は?」
ファイツが口にした言葉で、ラクツは思わず間の抜けた声を出した。この娘は何をわけの分からないことを言っているのだろうと思いながら、目を大きく見開いて絶句する。そこは”ありがとう”と礼を述べるなり、”よくやった”と労うところではないのか。少なくとも自分なら𠮟りつけようとは欠片も思わないのだが、この娘にとってはそうではないのだろう。
「…………」
ラクツの絶句はなおも続いた。何故かマフォクシーを叱っている、ファイツという名前の彼女は紛れもなく女の子だ。それも、間違っても子供とは言えない年齢の女の子だ。じろじろと見るのは色々と問題があるから無理やりに視線を逸らしたが、ダメ押しとばかりにスタイルもかなりいいことが窺える娘だ。それなのに、むしろ男である自分より遥かに危機感が欠如しているようにしか思えないのはいったいどういうことなのだろうか。率直に言って今の彼女は隙だらけにしか見えない。言い方は悪いが、男にとっては格好の獲物でしかないと言い換えてもいい程に。
「……ファイツくん。こういうことはよくあるのか?」
「だから……え?えっと、うん……。よくっていうか、いつもなの。失礼だから止めてって言ってるんだけど、どうしても止めてくれなくて……。そうそう、つい最近だって訪問販売に来てくれた男の人を無理やり追い出しちゃったんだよ?にこにこしてて、親切そうな人だったのに……」
「…………」
どうにか言葉が発せられるようになったラクツは、しかし再び絶句する羽目になった。マフォクシーが追い出したということはつまり、来訪者が彼女に対して悪意があったということなのだ。その悪意の種類が容易に想像出来るとラクツは深い溜息をついた。「訪問販売を装って獲物を品定めする男のどこが親切なんだ」と、自由にものが言える胸中で好き勝手に毒づいてやる。この娘は自分の身に危険が迫っていることに微塵も気付いていないのだ。
「親切そうっていうか、本当に親切な人なんだと思うの。だって、マフォクシーさんに”ねんりき”で追い出されちゃったのに全然怒らなかったし……。あ、そういえば”また近いうちに来ますね”って言ってたっけ……」
「あの人に悪いし、今度はあたし1人で話を聞こうと思ってるの」という言葉を聞いたラクツは、とうとう自分の額を指で押さえた。のうてんきというか、危機感が希薄過ぎるというか、こういうことに対して無頓着にも程があるというか。とにかく、ファイツの無防備さに耐えられなくなったのだ。心に浮かぶのは盛大な呆れととある1つの確信だ。”近日中に、この娘は訪問販売員を騙った男に襲われる”。賭けてもいい、この見立ては絶対に間違っていないと自分の直感が言っていた。
(……仕方ないな)
ファイツにとってはただの訪問販売として聞こえるであろう”近いうちにまた来ます”という言葉も、警察官である自分にとっては犯罪予告にしか聞こえないわけで。だからラクツは、またしても仕方ないなと胸中で呟いた。けれどそれでも、昼間に呟いた時よりずっとやる気はあった。それに、手のかかる娘だとも思わなかった。悪事が絡むなら話は別だ。1人の警察官として、近いうちに犯されるであろう犯罪を見過ごすわけにはいかない。額から指を離して、ファイツをまっすぐに見据える。
「ファイツくん、話がある」
「話って?」
「……いや、いい。食事を済ませてからで構わない。キミもどうやら空腹であるようだし、まずは食事を終えようか」
「……もう、ラクツくんの意地悪っ!そんなこと、わざわざ言わなくたっていいじゃない!」
何かを察したらしいファイツは、そう告げた途端に顔を赤らめた。そのままの勢いで反論して来る彼女を軽くいなして、ラクツはすっかり冷めてしまった手料理に手を伸ばした。そして、どうしてこういうことには察しがいいのだろうと、実にわけの分からない娘に向けて首を傾げた。