da capo : 002

2周目は突然に
暗闇の中で目を開けたラクツは、真っ暗な空間で呆然としていた。何が何だか分からない、というのはまさにこのことを言うのだろう。

「ボクは……。死んだはず、だろう……?」

首を傾げて、眉間を寄せて、困惑を滲ませながらこの身に起きた事象を口にする。そう、自分は死んだのだ。プラズマ団の長を名乗るアクロマが繰り出した赤いゲノセクトに敗れて、致命傷を負って、諦観の末にこの世を去ったはずなのだ。それなのに、何故まだ生きているのだろうか。しかも自分がいるのは室内だ。記憶が確かなら、先程まで地面に横たわっていたはずなのに。

「…………」

頬を引っかくと、確かに軽く痛みを感じて。ボクは夢を見ているわけではないんだなと、ラクツは胸中で呟いた。状況はまだ飲み込めないが、これは歴とした現実なのだ。しかしいくら考えてもわけが分からなかったラクツは、とりあえず深呼吸をしてみた。不測の事態に直面した際こそ冷静さを失うなと教えられているのだ。

(やはり、苦も無く呼吸出来るな。ということは、肺には何の損傷もないということか。視覚も聴覚も触覚も普段と変わりない……か)

いつの間に手当てをされたのだろうかと訝しみながら、左胸に手を当ててみる。手の平越しに伝わる鼓動は規則正しいもので、自分がこの世に存在している確固たる証拠だったのだが、どうにも腑に落ちなかった。長考の末にようやくそれらしき結論を出したラクツは、また息を吐き出した。つまりここはこの世とあの世の境目で、もうすぐ死ぬ運命にあるのだろう。この世への未練がそうさせたのだろうか。

「とある宗教では三途の川と呼ばれていたが、ここがそうなのか?……とてもそうは見えないが」

その名の通り花や川が見えると本には書いてあったが、眼前に広がる物体はどう見ても自然物のそれではない。暗闇に慣れた目に、机と椅子と教卓と黒板がぼんやりと浮かび上がる。どこにでもある教室の風景だ、それも見覚えのある教室の。そう、ここはヒオウギシティトレーナーズスクールのE組の教室なのだ。

(ボクが伏していた場所とトレーナーズスクールは離れているが、フタチマルが運んだのだろうか?……それにしても、死ぬ気配がまるで感じられないな)

何にしても、フタチマルに改めて別れを告げる時間がこれで確保出来そうだ。ラクツは口元に無意識の笑みを浮かべると、モンスターボールを鞄から取り出した。

「フタチマル!?」

ボールのスイッチを押すや否や、フタチマルが飛び出して来る。大事な相棒は、自分にしがみ付いたまま梃子でも離れようとしなかった。幾度目かの頼みでようやく放してくれた彼は、しかし瞳から止めどない涙を流している。二度と見られないと思っていた相棒の落涙だ。

「フタチマル……。何て表情をしているんだ、まったく」

涙どころか鼻水まで垂らしている彼に苦笑しながらポケットティッシュを差し出すと、フタチマルは目を乱暴に擦った後に音を立てて鼻をかみ始めた。警察に所属しているポケモンらしからぬ姿を見せる彼をまっすぐに見つめる。そして、はたと気付く。ここから見える限りではだが、フタチマルの身体に汚れや傷がまるで見当たらないのだ。精神的には平常とは程遠いが、身体的には健康そのものだ。

「フタチマル、ボクはもうすぐ死ぬはずなんだ。改めて、お前にこれまでの礼を…………」

言葉を最後まで言わなかったのは、フタチマルがふるふると首を横に振ったからだ。礼すら言わせてもらえないのかと眉間にぐっと皺を寄せたその時、泣いていたはずのフタチマルが自分の手を取る感覚を抱いて。気付いた時には、ラクツは相棒によって黒板の前に立たされていた。

「……!?」

ラクツは絶句した。黒板に書かれていた日付けは8月31日、赤いゲノセクトと戦った日より2週間以上も前だったのだ。ポケモンに教えられるまで気付かなかったことは失態だが、これで謎が解けた。過去に戻る力を持つポケモンといえば……。

「ときわたりポケモン・セレビィ……。……そうか、あの緑の光はセレビィが発したものだったのか……。つまり、ボクは時を渡った……過去に戻ったんだな」

手当てされたわけでも何でもない。そしてもちろんこの世とあの世の境目にいるわけでもない。死ぬ寸前で出現したセレビィに触れたことでときわたりの力が発動し、過去に戻ったことで致命傷を負った事実が”なかったこと”になったのだろう。

(肝心のセレビィだが、周囲にいる気配がない。もちろんボクの鞄の中に身を潜めてもいない。どこかに飛び去ってしまったのか……)

物思いに耽っていたラクツだったが、耳に届いた音で思考を打ち切った。この教室に近付いて来る誰かの足音がはっきりと聞こえたのだ。今は夜中で、言うまでもなく消灯時間もとうに過ぎている。足音から推測される歩幅からして大人ではなさそうだ。強制的に飛ばされた自分はともかく、子供が深夜の教室に何の用があるというのだろう?

「誰だ!」
「きゃあ!」

教室の前扉を勢いよく開けたラクツは、目を見開いて硬直した。パジャマを着込んだ金髪の少女が、口に手を当てて立ち尽くしていたのだ。ラクツもよく知っているクラスメイトだ。

「……ユキちゃん」

彼女の名を呼ぶと、ユキはホッとしたように息を吐き出した。「びっくりしちゃった」と困ったように言った彼女には、しかし非難の色は微塵も見られなかった。そんな彼女に対して、ラクツは笑みを貼り付ける。”ラクツ”の登場だ。

「ごめんね、ユキちゃん。ボク、てっきり不審者かと思って……」
「いいのいいの、ラクツくんに会えたんだし!でも、電気を点けないと目が悪くなっちゃうよ?……あ、でもラクツくんなら眼鏡も似合うと思うけどっ!」

拳をぎゅっと握って何とも的外れなことを言う彼女が、声をひそめて「どうしてここにいるの?」と言葉を発した。至極当然の問いだが、正直に答えてやる義理はない。

「うん……。夜の学校って何かワクワクするし、前から探検してみたくって……。それより、ユキちゃんこそどうしたの?」
「あたしは、ちょっと忘れ物しちゃって。……あ、あった。ほら、このヘアオイル。このオイルじゃないと髪の毛がまとまらないのよね~」
「ああ。だからユキちゃんって、いつも髪の毛が綺麗なんだ!すごくサラサラだよね?」
「あ、ありがとう……っ。そうなの、これでも結構努力してて……。……でも忘れ物して良かった!こんなところでラクツくんと会えたし、すっごく嬉しい言葉もかけてもらったし……っ!」
「うん。ボクもユキちゃんと会えて良かったよ」

口をついて出たそれは、心からの本音だった。同じ出くわすなら叱られることが目に見えている教員や口うるさい男子生徒より、口で丸め込めるユキの方がずっといい。それにその感情こそ理解出来ないが、彼女が自分に好意を向けているという事実はとうの昔に理解している。ユキならこちらの質問に包み隠さず答えてくれるだろう。そう、少々不自然な質問でも。

「やだ、もう!ラクツくんにそんなこと言われたら、あたし……っ!」
「そんなに恥ずかしがらなくてもいいのに。それよりユキちゃん、ちょっと訊きたいことがあるんだけど……」

落ち着きを取り戻した今、次にすることは1つしかない。セレビィの気まぐれでも何でも命を拾ったのだから、任務遂行に心血を注ぐのみだ。暗い廊下を連れ立って歩きながら、改めてそう決意したラクツは情報収集をするべく口を開いた。