その先の物語 chapter W : 017

しんじる
「……それって本当なんですか?えっと……。ペタシさん、でしたよね?」
「そうっぺよ!ファイツちゃんは女子の中でトップの成績だっただす。それも、転校生なのに!転校初日にトップの成績を取るなんて、オラ、すげえって思って……!ファイツちゃんはクラスの皆が認める優等生だったべな!」
「優等生……。あたしが、優等生……?」

眉根を寄せて小首を傾げたファイツが、うんうんと唸っている。興奮の所為か頬を紅潮させたペタシが、うんうんと頷いている。ペタシの右隣の椅子に腰かけたヒュウは、そんな2人の様子を眺めていた。ホワイトが持って来たデザートの大半を平らげた後で、トレーナーズスクールで自分がどう生活していたか知りたいとファイツが言ったから。だからヒュウは、それならばと教えたそうにしていたペタシにその役目を任せたのだ。だけどヒュウは、自分が教えれば良かったと思い始めていた。ファイツはいいとしてもペタシが無駄にやたらと熱く語る所為で、何だかむず痒いというか居たたまれない気持ちになるからだ。

(ペタシのやつ、前と変わってねえな。まあ無理もねえけど)

こっそり悪態をついたヒュウだが、そうは言ってもペタシの気持ちを完全に理解出来ないというわけではなかった。何せファイツが眠っている3年間は、名前を呼ばれるどころか目新しい反応もなかったのだから。実際、ヒュウだって起きて喋っているファイツをこの目で見た時はかなり嬉しかった。ペタシのようにむせび泣くことはなかったけれど、心の中ではいつかのように神様に感謝したし、危うく泣きそうになったくらいなのだ。だけどペタシの反応は、やっぱり行き過ぎではないだろうかとヒュウは思った。
同時に”汚ねえ”とも思ったヒュウは、涙だけならまだしも鼻水までだらだらと垂らすペタシの鼻先に、妹に半ば強引に持たされたポケットティッシュを突き付けた。ポケットに乱暴に突っ込んだ所為で捩れてしまったポケットティッシュが早速役に立ったと、至近距離で鼻を噛まれるという正直不快なBGMを聞き流しながら思う。幸運にもまだ気付いていないようだが、深く悩んでいるらしいファイツに心配されるのも時間の問題だ。心配されるならまだいいが、人によってはドン引きされてもおかしくはない。それくらい今のペタシの顔は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃなのだから。そんなペタシに”いっそ顔を洗えばいいのによ”なんて悪態を心の中でつきつつ、ヒュウは難しい顔をしているファイツを見やった。

(やっぱり、ファイツは思ったより変わってねえよな……。元々おとなしいやつだからか?)

そう、”思ったより変わっていない”。気の毒にも記憶を失ってしまったらしいファイツと対面したヒュウの感想は、まさにそれだった。もちろん何の変化も見られないわけでは決してなかった。分かりやすいのは自分達に対する接し方だろう。今目の前にいるファイツの口調も態度も、かつてのような一歩も二歩も引いたものに戻っているわけで。あくまで友達としてだけど、自分達にすっかり打ち解けてくれていたファイツを知っている身としては、どうしようもないくらいの淋しさを覚えてしまう。だけどそれでも”あまり変わっていない”という自分の考えが変わらないのは、ヒュウがこれより酷いパターンを想定していた所為なのだろうか。

(……まあ何にしてもだ。普通に喋ってくれるだけマシだよな。……敬語だけどよ)

普段は特にマイナス思考ではないヒュウだけれど、流石に記憶を失くしたファイツと対面する時は大いなる不安が募った。例えば”怯えきっていて会話すらままならない”とか、例えば”抜け殻のように虚空を見つめている”とか。引いては”現状に打ちのめされていて、ただ泣くばかり”だとか。ラクツが教えてくれなかったこともあって、それはもう目を覆いたくなるような暗い表情をしたファイツが次から次へと浮かんでは消えていったものだ。だから現実に生きているファイツが自分の想像とは大違いだったと知った瞬間は、柄にもなくホッとした。そのすぐ後で自己嫌悪に襲われたものの、正直”良かった”とさえ思ってしまった。納得いかない様子でうんうんと頭を悩ませている彼女は、まさに自分が知っているあのファイツではないか。

「おい、ファイツ。いつまで悩んでんだよ。ペタシの言ったことは嘘じゃねえって」
「ヒュウさん……」

このままでは延々と悩みそうだと思ったヒュウは、苦笑混じりに助け船を出してやる。自分の世界に入っていたファイツは、この一言で我に返ったようだった。だけどこちらをまっすぐに見つめるその目は、未だに納得がいかないと言っている。

「で、でも……。あたしが優等生だなんて、納得いかなくて……。劣等生だって言われた方が、ずっとしっくり来るんですけど……」
「いや、マジだぜマジ。転校生なのにいきなりポケモンバトルを勝ち抜いたお前は注目の的だったんだよ。女子の1位がお前、男子の1位がラクツだ。……面と向かっては言えねえけど、あいつはすげえやつだよ」

脳内に思い浮かべたそれは、当時は苦いとしか思えなかった記憶だった。今だって余裕があるとはとても言えないが、ひたすら強さを追い求めていたあの頃は心にひとかけらの余裕すらなかったのは確かだ。そんな折にポケモンバトルで敗北を喫したことで、ヒュウは激しい悔しさと自分自身に深い憤りを覚えたものだ。自分が1位でなかったことも悔しかった、だけどそれ以上に悔しかったのがナンパばかりしていて遅刻も多いラクツに負けたことだった。どうして遊んでばかりいるやつに負けるのかと、ペタシに愚痴を言ったことも一度や二度のことではない。ちなみに今でも時々ラクツにポケモンバトルを挑んでいるヒュウだが、その戦績は散々なものだった。面倒だから回数はいちいち数えていないが、100%の確率で負けている。あの頃ならいざ知らず、ラクツの強さに納得がいっている今は腹立たしいという感情は湧いて来なかった。もちろん、いつまでも勝てないことに対しての悔しさはあるけれど。

「やっぱりラクツさんって、すっごく優秀な人なんですね!……やっぱりそうなんだ……」

ヒュウが”ラクツ”の名前を出した直後だった。それまではどこか不安そうにしていたファイツの顔が、目に見えて明るくなる。その目線が自分達ではなく病室のドアに向かったことで、ヒュウはラクツが彼女の信頼を勝ち取っていることを悟った。ちなみにラクツ本人は今、ホワイトと共に席を外している最中なのだ。ちゃんとした自己紹介を済ませた後でデザートを各人が食べ終えたところで、「自販機で人数分のジュースを買って来るわ」と唐突に言い出したホワイトは、手が足りないからとラクツを伴って病室を出て行った。ついでにラクツが相棒だと称したフタチマルもこの場にいない。だから今この病室にいるのは自分達とファイツと、そして気に入らなさそうに鼻を鳴らしたダケちゃんだけなのだ。

(あー、ダケの機嫌が悪くなりやがった。まさか、オレ達に攻撃して来るんじゃねえだろうな。ファイツだっているんだぞ……!)

この3年間で、ダケちゃんから放たれた露骨に悪意のある視線を浴びることにすっかり慣れたヒュウだ。実際、今の今までだって敵意が込められた視線を度々向けられていたわけで。いつものことなので特に気にもしていなかったが、そんなヒュウですら流石にこれはヤバいのではないかと思った。それ程の殺気だ。それは隣にいるペタシも同じだったらしい。涙と鼻水でかぴかぴになったその顔は、緊張感で張り詰めている。

「おい、ダケ。お前がラクツを気に入らねえのは分かってるけど、落ち着けよな」

本能でヤバいと思ったヒュウだが、ひとまず勝手に付けたニックネームを口にした。どうしてもダケ”ちゃん”と呼べなかったヒュウは、そう呼んでいるのだ。努めて冷静に話しかける横で驚愕の表情を見せたのはファイツだ。

「えっ!?ダケちゃん、何してるの!?」
「不機嫌になったついでに、オレとペタシを威嚇してんだよ。オレ達はダケに嫌われてるからな。……まあラクツ程じゃねえだろうけど」
「ど、どうして……?ラクツさんまで……っ」
「いや、どうしてって……」

ヒュウは口を噤んだ。ダケちゃんがラクツにだけ恐ろしく敵意の混じった視線と態度を向けるのは、他ならないラクツがファイツに惚れていて。そしてダケちゃんはそんなラクツが気に食わないからなのだ。だけどそんなことは流石に言えない。いくら何でも絶対に言えない。告げてしまったら、自分達の身がどうなるか分からない。わけの分からないと言わんばかりの顔をしているファイツには悪いが、そんなのはごめんだとヒュウは思った。静かな声だったけれど、言い争うつもりなら出て行けと威圧されたのは記憶に新しい。全面的に自分が悪いのだけれど、あれは割と本気で死ぬかと思った。
この場で実力的な意味でダケちゃんに対抗出来そうなラクツは今、この場にはいない。ドリンクを買うと言ったホワイトを手伝っているからだ。天地がひっくり返っても妙な気は起こさないと断言出来るヒュウだが、好きな相手が複数の男子と同じ空間に存在しているのは確かな事実なのだ。それなのにラクツがフタチマルをこの場に残していかなかったことはつまり、自分達はそれなりに信頼されているということなのだろう。何よりも、ラクツにある程度信頼されていなかったら、そもそも自分達はこの場にいないはずではないか。ヒュウはその信頼を裏切りたくはなかった。どうしたものかと考えあぐねるヒュウを救ったのは、コンコンというノックの音と「入るわよ」というホワイトの声だった。ホワイトが戻って来たらしい。

「……遅くなっちゃってごめんね、欲しいジュースが売り切れてて……。って、どうしたの?」
「ああ、いや……。別に何でも……。なあ、ペタシ?」
「そう、そうだべな!」

力強く頷いたペタシに賛同したヒュウは、正直助かったと思った。このタイミングで戻って来てくれた彼女に、お礼を言いたい気分だった。ダケちゃんがホワイトに懐いていることは知っている。度々甘い物をくれる人という認識なのだろうが、この際それでも良かった。ファイツと自分達がダケちゃんの攻撃に巻き込まれないのなら万々歳だ。事実、ダケちゃんはホワイトが手にしたジュースに熱い視線を送っている。これならもう大丈夫そうだと、一気に安堵したヒュウは、ファイツがジュースを選ぶところを何となく眺めていた。お金を払おうとしたファイツの申し出をやんわりと断るホワイトの顔立ちが、ファイツにかなり似ていることにヒュウは今更気が付いた。もしかしたら遠い親戚とか、あるいは生き別れの姉妹だったりするのかもしれない。

「あれ……?あの、ラクツさんはどうしたんですか……?」

リンゴジュースに口を付けていたファイツが、きょろきょろと辺りを見回した後でそう呟いた。レモン果汁の入ったジュースを一気に飲み干したヒュウは、確かにそうだと思った。そういえば、同じタイミングで出て行ったラクツがいないではないか。

「ラクツくんなら通話中よ。ライブキャスターに連絡が入ったんだって。仕事上の大事な連絡みたいで、もしかしたら長引くかもって言ってた」
「そう、なんですか……」

ファイツは缶ジュースを持ったまま俯いた。その顔には明らかに、”ラクツさんに早く帰って来て欲しい”と書かれている……。

「……仕方ないですよね。ラクツさんは警視さん、なんですもんね……」
「そんなに心配しなくても、ラクツくんならすぐ来るわよ。ああもう、ファイツちゃんったら本当可愛いっ!」
「な……。何するんですか、ホワイトさんっ!?」
「ホワイトさん。そのくらいにしないと、またラクツの逆鱗に触れますよ」

ヒュウははあっと溜息をついた。今のファイツの口振りからして、ラクツは彼女に色々と伝えていないことがあるらしい。秘密主義なのは構わないし、立場上話せないことがあるのは理解している。だけど、何でもかんでも1人で背負い込もうとするのは流石にどうなのだろうか。目線で助けを求めて来たファイツに応えながら、ヒュウはこの場にはいない親友に向かって「少しはオレ達に相談しろよ」と心の中で毒づいた。