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ありがとう、さよなら。
「ご注文は何になさいますか?」

そう尋ねたウエイトレスに「コーヒーを1杯」とだけ伝えて、ファイツはメニューを置いた。普段ならばカフェに来た時はパフェを必ず頼むけれど、今日はとても甘い物を食べる気にはなれなかったのだ。店内に流れるBGMを聞きながら、ファイツはブラックが来るのを待った。周りを気にせず会話したくて奥の席を選んだけれど、平日でしかも午前中の所為か客はそれほど多くなかった。無理にこの席にしなくても良かったかもなんてことを思いながら、ファイツは頬杖をついた。外が見えるのでそこから道行く交通人をぼんやりと眺めたものの、未だに彼の姿は見えない。どうやらブラックは遅れて来るらしい。
思ったより早く運ばれて来たコーヒーをひと口飲むと、口の中に苦味が広がった。思わず一緒に付いてきたミルクとガムシロップに手を伸ばしたが、入れる直前で思い止まる。相変わらず甘い物が好きなファイツだが、今日は思い切り苦いコーヒーを飲みに来たのだ。正直言って飲めたものではなかったけれど、ぐっと我慢して何とか飲み干した。すぐに冷たい水を飲むが、それでも残った苦味は取れない。口直しに水まで飲んで、わざわざ何をしているんだろうと自嘲した。

「もう6年かあ……」

ファイツは憂鬱な気持ちでライブキャスターに内蔵されているカレンダーを見つめた。正確には1週間前だが、プラズマ団の事件が解決してからもう6年の月日が経つ。この6年はあっという間に過ぎていった。ファイツがヒオウギシティトレーナーズスクールの教師となってからもう3年も経つのだ。そして、ファイツがラクツとつき合い始めてからの年数も3年になる。

(あたしが教師になるなんて、想像もしてなかったな……)

12歳の頃、ファイツは別の夢を見ていた。今となっては永遠に叶うことのない、けれどあの頃は真剣に叶えてみせると信じていた夢。それは結局、現実にはならなかった。

(不思議よね。だって今はもう、彼の声も思い出せないのよ)

顔は辛うじて思い出せるけれど、声はとうの昔に忘れてしまった。あんなに好きだった人は思い出の中の人になって、あんなに避けていた人をファイツは好きになった。確かに12歳のファイツはNが好きだったはずなのに、ラクツくんのことなんて嫌いとまで思ったのに、その気持ちはどこで変わったのだろう?……そう。人間の気持ちなんて、簡単に変わる不確かなものなのだ。

「いえ、人と待ち合わせをしてるんです!オレ……」

よく通るその声はファイツの耳にきちんと届いた。確かにこの人を待っていたはずなのに違和感を感じて苦笑する。今日会うのはラクツではないのだ。ブラックは待ち合わせ時間よりすっかり遅れたことを気にしているのか、顔を見るなり手を合わせた。

「悪いファイツ!すっかりバトルに夢中になっちまって……!」
「もう!遅いですよブラックさん。コーヒー1杯分、余計に奢ってもらいますからね」
「ああ、それはもちろん……」

そう言いながらちらりとメニューを見たブラックは冷や汗を流した。コーヒーの値段が予想以上に高価だったのだ。生憎、今日はあまり持ち合わせていない。思わず財布の中身を確認しだしたブラックに、表情を一転させたファイツが微笑んだ。

「ふふ、冗談ですよブラックさん。忙しいのにわたしの方から呼び出したんですから。今日も5時から予定があるんでしょう?コーヒーは飲みたくて頼んだんですし、わたしがお金を出します」
「い……。いや、せめて自分の分くらいは払わせてくれ」

ありがたい提案をブラックは却下する。ファイツは女の子だし、おまけに後輩だ。ファイツに奢られてしまっては男の面目丸潰れだ。

「そうですか?分かりました」
「ああ。……あれ、今日はパフェじゃないんだな」

結局一番安いコーヒーを注文したブラックは、ファイツが好物を頼んでいないことに気が付いた。それくらい、ファイツといえばパフェのイメージが強いのだ。

「はい。今日はブラックコーヒーの気分なんです」
「ふうん……」

世間話をするうち頼んだコーヒーが運ばれてきて、ブラックはまず口に含む。何とか飲み込んだものの、すぐにゲホゲホと咳き込んだ。

「苦え!何だこれ、すげえ苦いじゃん!よくこんな苦いの飲めるなあ……」
「わたしもそう思います……」

2杯目のコーヒーを何も入れずに飲むファイツを見ていたブラックは、使いますかと差し出されたミルクとガムシロップをありがたく受け取る。スプーンである程度混ぜたところで、「それで」と尋ねる。

「で、ファイツ。相談って何だ?」
「あたしとラクツくんのことで、です」
「はあ!?オレに?」

予想外の言葉に驚いて思わず自分を指差すが、聞き間違いではないらしい。色々考えたが、まさか恋愛相談とは思わなかったのだ。

「…………」

ブラックは困っていた。目の前のファイツだってそうだろうが、ブラック自身も本当に困っていた。恋愛相談なんてもの、産まれてこの方されたことがない。されるよりする方だ。

「なあ、ファイツ。相談を受けておいて何なんだけどさ」
「……はい」
「何で社長じゃなくてオレを選んだんだ?」

自慢じゃないが、間違ってもブラックは女心など理解出来ない。何せ人生初めての彼女がホワイトで、彼女に出会うまでは恋愛にひとかけらの興味もなかったので、つき合うまでに散々苦労したのだ。見当違いのことを言って泣かせたり怒らせたりとか、色々。
こういった相談なら、白羽の矢が立つのはやっぱりホワイトだ。ホワイトはファイツを妹のように可愛がっているし、何より同性だ。認めるのは悔しいけれど、ホワイトならば恋愛経験も多いだろう。BWエージェンシーはイッシュ地方で有名になる程の企業となり、今やホワイトはその大企業の女社長なのだ。「今月も赤字だからなんとかしなくちゃ」と必死でやりくりしていた頃の彼女を知っている身としては、会社の経営は自分のことのように嬉しかった。
とにかく、ホワイトは仕事が出来ておまけに美人だった。あれでモテない方がおかしい。自分が世界から切り離されていた2年間に数多の男からアプローチを受けていてもおかしくない。……それを認めるのは非常に腹立たしいけれど。

「あの……。ブラックさん?」
「へ?……あ、悪い!!」

ブラックは我に返るとすぐに謝った。いくら気が進まないとはいえ自分は相談を受けているのだ。それなのに思考が別の方向へと向かっている。今は遠くの彼女より近くの彼女だ、と強く念じた。

「ごめん、ちょっと考え事してて。……で、何でオレなんだ?オレなんかより社長の方が適役だろ?こういう相談はさ」
「だ……。だって、ホワイトさんは女の人じゃないですか」
「……?ああ。そりゃ、な。相談相手が男の方がいいのか?」
「えっと……。はい」

誰かに相談すると決めた時、ファイツの頭にまず浮かんだのは確かにホワイトだった。今までにも恋愛相談は何度かしている。「アタシも経験豊富じゃないから偉そうに言えないけど」なんて言いつつも、実に的確なアドバイスを毎回してくれるのだ。そんなホワイトにファイツは感謝しているのだけれど、今回ばかりはそうもいかない。
そんなわけで、ファイツは男であるブラックに相談することにしたのだ。チェレンの顔も浮かんだのだが、彼は今や同僚の立場だ。ほぼ毎日顔を合わせる異性に相談するのは躊躇われた。一番確実で手っ取り早いのはラクツ本人に尋ねることだが、それが出来たらファイツはブラックを呼び出してなどいない。おまけにすることを全部すませているとはいっても、流石に相談出来なかった。

「まあ、オレで良ければ相談に乗るよ。その代わり、あまり期待しないでくれるか?何しろこんなこと初めてで……」
「ありがとうございます、ブラックさんの意見が聞きたくて。その、ええと……。あのですね」
「ああ」
「その……。ブラックさんは、ホワイトさんと……」
「……何だよファイツ、よく聞こえねえ」
「だから……」
「……もっと大きな声で言ってくれねえか?」

けれど大声ではやっぱり言えなくて、ファイツはブラックに耳打ちした。質問を理解したブラックの顔が瞬く間に赤く染まる。

「な、な……!!」
「……どうですか?」
「……そりゃあ、まあな。週に何回か、くらいは」

恥ずかしさからか、横を向いたまま答えるブラックに「そうですか」と静かに言って、ファイツはもう一度耳打ちする。

「ど、どんな時にって言われても……。ええと、ごにょごにょ……」
「ブラックさん、よく聞こえないです」
「だから!!……そ、その。た、例えば社長とキスした後だとか、他にはオレからとか……。後はもう言わねえぞ!!」
「そう、ですか。……例えば、仮にですけど。もしホワイトさんが頼んで来たらどうします?」
「……そりゃあ、オレも男だし。言わなくても分かるだろ?」
「それじゃあ、ひと月くらいだったら我慢出来ますか?」
「オレには……ひと月もなんて、無理だと思う。別に身体だけが全部ってわけじゃあねえけど、ひと月もなんて……」
「よく分かりました。……ありがとうございます」

沈んだ様子のファイツに、ブラックはおそるおそる尋ねる。

「なあ。もしかしてラクツと、その……したことないのか?」
「……3ヶ月前くらいにしたきりで……」
「オ、オレはファイツのこと……可愛いと思うぜ?いや、本当だって!」

(もしかして、大事にし過ぎて手が出せねえとか?でも、3ヶ月もだし……。他に何か理由があるのか?)

「…………」

沈黙が怖い、とブラックは思った。引いたはずの冷や汗がまただらだらと流れる。

「ありがとうございます、ブラックさん。わたし、決めました」
「決めたって、何を……?」
「……ラクツくんと、お別れします」
「はあ!?」

ブラックは今度こそ大声を出した。思わずファイツが耳を塞ぐが、それを謝るどころではなかった。

「何でだよ!だってお前、まだあいつのこと好きなんだろ!?さっきのはオレの場合ってだけで、ラクツは違うかもしれねえ!」
「……はい。でも正直言うと、もう別れようって前から決めてたんです。今日ブラックさんに聞いてもらったのは、参考までに聞きたかっただけで……。多分、誰かに吐き出したかったのかもしれません」
「そんな……!」
「あ。あと15分で5時ですよ?もう出ないと……」
「!くそ……」

ブラックは時計を見る。こんな時に予定を入れた自分が腹立たしかった。

「ブラックさん、本当にありがとうございました。あたし、もう1杯飲んでから帰りますね」
「なあファイツ。早まるなよ、もう1回考え直せって!今日は帰るけど、また明日相談に乗るから!」
「……はい」

慌ただしく早歩きで出て行くブラックに軽く会釈して、ファイツは3杯めのコーヒーを注文した。あれ程苦かったブラックコーヒーなのに、今は無性に飲みたくて仕方がなかった。

「お待たせしました」

ウエイトレスが見えなくなったと同時に、一気に半分程飲んだ。やっぱり苦いけれど、今はこの苦さが心地いいとすら感じる。ブラックコーヒーといえばラクツのイメージが強い。

(ラクツくん、よく飲んでたっけ……)

彼のことを思い出して、ファイツはまた微笑んだ。ラクツは今もなお警視だが、今は休暇中で自宅にいるはずだ。彼宛に手紙は出してあるから明日にも届くだろう。その後は彼のメルアドも電話番号も受信拒否だ。幸いファイツ自身も明日から休暇で、その期間はどこか旅にでも出るつもりだ。休暇が終わったら、ファイツはトレーナーズスクールの職員寮に戻る。その後も彼からの連絡は拒否だ。こうすれば、流石にラクツだって諦めるに違いない。

「今までありがとう、ラクツくん。……さよなら」

小さく呟いて、ファイツはコーヒーを飲み干した。涙が頬を伝わっているのに気が付いたけれど、それはコーヒーの苦さの所為なのだとファイツは何度も何度も言い聞かせた。