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5月4日、雨。
ファイツはその日、朝から憂鬱だった。空はこんなに青いのに、心の中は今にも雨が降りそうな程だ。晴れ渡る空を見ても、不思議と心までは晴れなかった。(それもこれも、全部彼の所為よ!)
……なんてことを思っていたりする。その言葉が耳に届く度に、何だか耳を塞ぎたい気分だった。
「誕生日おめでとう!あの……。これ、良かったら……っ」
今は午前9時前だ。まだ授業は始まっていないのに、何故こうもこの台詞を聞かなければならないのか。最初の方は暇潰しに数えていたファイツだが、10回を超えたところで数えるのを止めた。同じクラスの女子だけならまだしも、明らかに学年が違う女子からも言われているのだ。数えるだけ無駄だ。
「もらっていいの?ありがとう!」
にこにこと答える彼は見るからに嬉しそうだ。彼の裏の顔を知っているファイツでさえそう感じてしまうのだから、頬を染めて自分のクラスに戻った彼女は殊更そう思っただろう。けれど、彼女は知らないのだ。
「…………」
ファイツは壁にかけられているカレンダーに目を向ける。今日は5月4日、ラクツの誕生日だ。
* * *
(そもそも、本当に今日なのかしら?)
この学校でそう思う人間なんて自分くらいだろうと苦笑する。名前も偽名、皆に見せている姿も偽りのもの。これでは今日が誕生日であるかどうか疑わしい。自分は知っていて、彼女達は知らない。ラクツとよく話すユキ達ですらそうだ。けれど、ファイツは明かすつもりは微塵もない。知らない方が幸せなこともあるのだ。
(……あたしも、知りたくなかったな)
ポケモンを”解放”するのはいいことなのだと、ファイツはそう信じていた。流石に今は目が覚めたけれど、当時は本当にそう信じていたのだ。プラズマ団の事件が一応の終息を見せたのは半年前だが、それでも大きさゆえに時々話題になる。その度に罪悪感を感じると同時に、知らないままでいたかったと思ってしまう。自分の甘さに自嘲して、結局罪悪感の方が強くなるけれど。
(これからどうすればいいんだろう……)
自分が何をしたいのかが分からなくて、胸元に手をやる。首には相変わらずペンダントがかかっていたが、中にはもうNの写真はない。困った時、助けて欲しい時にそうする癖はしばらく直りそうになかった。例え会えなくても、これを見れば彼が導いてくれるような気がしたのだ。
思えば、自らの意思で何かを決めた記憶がほとんどない。この学校に通うと決めたのはファイツ自身ではなく母親で、プラズマ団の事件に関わることになったのも言ってみれば成り行きだ。”N様が好き”というファイツの中では不動だった事実ですら、はっきりそうだと言える自信が今はなかった。自分が好きになったのはNという人なのか、それともプラズマ団の王なのかが分からない。結局Nとは会えずじまいだったが、それで良かったのだと思うことにしている。もしかしたら、好きという気持ちは錯覚なのかもしれない。憧れを恋だと取り違えたのかもしれない。Nと対面したら、否が応でも考えざるを得なくなるだろう。それが、怖かった。
「ファイツちゃん!ファイツちゃんってば!」
「え……?」
ファイツは顔を上げる。周りを見ると、クラスメイト全員が自分を見ていた。その事実で心臓が音を立てた。注目されるのは、未だに慣れない。
「……やはり話を聞いていなかったな、ファイツ」
「すみません、チェレン先生……」
授業はとっくに始まっていたらしい。チェレンに頭を下げたファイツは今度こそ話をきちんと聞こうと試みたが、心がふわふわと浮いたようでまるで集中出来なかった。
「ファイツちゃん。具合でも悪いの?」
ファイツは振り返る。声の主はラクツだ。
「確かに顔色が優れないな」
「ええと……」
実際は悪くも何ともない。ここ最近寝不足気味だったのは確かだが、それで医務室に行くのは気が引けた。大丈夫です、そう答えようとしたファイツをラクツが遮る。
「先生、ボクが医務室まで送っていいですか?」
「え……?」
「彼女、具合悪いみたいですし」
「ああ。すぐに戻るように」
「はーい。……ファイツちゃん、行こう?」
「ちょ、ちょっとラクツくん!?」
クラス中の視線を浴びている。半ば強引に連れ出されたファイツはその気まずさを感じる暇もなかった。その代わりに、別の気まずさを感じる羽目になったが。
* * *
「先生、いないみたいだね」
(どうしてこんな時に……!!)
医務室には大抵先生がいるのだが、残念なことに無人だった。部屋で2人きりという事実に、ファイツは意味もなく緊張する。
「ラクツくん!……ラクツくんってば!!」
「ん?何、ファイツちゃん」
「分かってるでしょう。手、離してくれる?」
そう言えば、繋がれていた手は呆気なく離される。医務室に行くまでなら理解出来るが、ラクツはここに着いてからもずっと自分の手を握っていたのだ。
(何でこんなことするんだろう……)
「ボクがファイツちゃんの手を握りたいからに決まってるじゃないか。他に理由があるの?」
「!!……どうして……!?」
「そう顔に書いてある。本当に分かりやすいよね、キミって」
「う……」
「とにかく、先生が戻って来るまでボクはここにいるから。何もしないから、安心して眠りなよ」
授業をさぼってしまったことに申し訳なく思いつつも、ありがたく眠ることにした。ちゃんとカーテンを引くのも忘れない。
「……ラクツくん」
「ん?」
「何で、あたしに構うの?」
ただの寝不足とはいえ、ラクツは一応付き添ってくれたのだ。そのことにお礼を言う方が先だと分かってはいるけれど、言ってしまったものは仕方がない。
「プラズマ団の事件が終わって半年経ったのよ。もうあたしに危険はないはずでしょう?一度も襲われてないんだから……」
「それはキミが判断することじゃない。……そう言いたいところだけど、生憎とボクも同意見だ。これから先、キミにプラズマ団絡みで危険が及ぶことはまずないだろうね」
「…………」
「それはそうと、ファイツちゃん。キミに頼みがあるんだ。無理強いはしないから、聞くだけ聞いて欲しいんだけど」
「……何?」
何となく嫌な予感がしたが、それでもファイツはじっと見つめてみる。彼の表情は相変わらず読めない。
「ボク、今日誕生日なんだよね。5月4日」
「知ってるわ。朝から何度も聞いてるもの。本当に今日が誕生日なの?」
「うん。でも、ファイツちゃんには”おめでとう”って言われてない」
「どうしてあたしなの?他の子に散々言われてるのに……」
「どうしてって……。……本当にファイツちゃんは鈍感だよね。それとも計算してるのかな?」
ラクツは苦笑する。彼女に限ってそれはないだろうが、こうも鈍いと勘ぐりたくもなるものだ。
「好きな相手から祝ってもらいたい。好きだから何かと理由をつけても一緒にいたい。……こう思うのは、別におかしいことではないだろう?」
「……え」
「本来、頼んで言わせるべきじゃないとは分かってはいるが……。こうでもしないと、キミはボクを祝わないからな。強制はしないが、出来ればキミからの言葉が欲しい」
「ど……どうせ、他の子にも言ってるんでしょう?か、可愛いだとか!いつも言ってるじゃない!」
「それは認めるが、”好きだ”とは言っていない。キミ以外にそう告げたことは一度もない」
(……どうしよう)
ファイツはぎゅうっと胸を押さえる。心臓が早鐘を打っていた。しばらくの間ファイツは迷っていたが、意を決してカーテンを開けた。ラクツと目が合う。
「た……。誕生日おめでとう、ラクツくん」
「……ありがとう」
ラクツは微笑んだ。笑うという行為では同じはずなのに、何故だかファイツは彼の笑顔を直視出来なかった。
「あ、あたし……。あのね……っ」
「先生が戻って来たみたいだ。それじゃあボクは教室に戻るから。……お大事に」
ラクツの背中が遠ざかって行く。自分を心配してくれる先生の言葉はまったく耳に入らなかった。再びカーテンを閉めて横になるが、とても眠れなかった。
「…………」
(来年は……自分から言えるのかな)
事後処理の為にラクツは半年間学校に留まったけれど、来年はどうなるか分からない。彼が来年の今日もここにいる保証などないのだ。
(あたし、何で泣いてるんだろう……)
空はこんなに晴れているのに、ファイツの瞳からは一筋の涙が零れ落ちた。ファイツの心には、大降りの雨が降り注いでいた。