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あなたは近くて、だけど遠い
少年にとって、その人物は憎悪の対象でしかなかった。けれど、少年は彼女を助けるつもりだった。「そいつを離せ!」
「そうはいかない。この女はやっと見つけた裏切り者だ!」
女が嫌いだと自他共に認める彼は、当然彼女もその枠に当てはめていた。ポケモンバトルが強いことと授業中に騒がないことは好感が持てたのだが、それでも女嫌いを払拭するまでには至らない。卒業の数年後には彼女の顔すら思い出せなくなるだろう、少年はそう思っていた。
……しかし、その予想は裏切られた。つい数分前の出来事が原因で、彼女の存在は少年の心中で大きくなったのである。それは恋愛感情などでは決してなく、むしろ真逆の感情だった。けれどそれでも、少年は少女を助けたいと強く思っていた。例え彼女が憎むべき相手だと分かってはいても、彼女を見捨てるという選択肢はあり得なかった。それが出来る程、少年は薄情ではなかったのである。
「……ヒュウ」
不意に名を呼ばれて、彼は振り返る。
「……何だよラクツ。あいつを助ける作戦でも思い付いたのか?」
小声で問えば、彼もまた小声で返した。
「いや。ポケモンを出せば彼女の命はないと言われてるし……ボク達は迂闊に手が出せないと思う」
「くそ……!!」
見るからに悔しそうなヒュウを見て、ラクツは尋ねる。
「……そんなにファイツちゃんが心配?」
「当たり前じゃねえか。お前だって、そうじゃねえのかよ?」
「別に」
間髪入れずに返って来たのは、意外にも否定の言葉。
「ファイツちゃんなら大丈夫。何の問題もないさ」
「……大丈夫って……」
フェミニストであるラクツとは思えない発言を聞いたヒュウは固まった。それでも何か言いたそうな彼を無視して、ラクツは人質にされている彼女を見据える。そして、ただ一言だけ。少年は少女の名を口にする。
「ファイツ」
彼に名を呼ばれたファイツは顔を上げる。周囲が静まり返っていたこともあり、彼の声は少女の耳にはっきりと届いた。……もっとも、常日頃から彼の言動には気を配っているのだが。
「…………」
ラクツの顔に不安の色は一切見られない。その事実にほんの少しだけ淋しさを覚えたものの、それを表に出すことはしなかった。ファイツは今まで浮かべていた怯えの表情を消し去り、黙ってラクツに頷き返す。2人の間に言葉は要らなかった。ラクツに呼び捨てで名を呼ばれたこと、それが合図だった。
……次の瞬間、ファイツにナイフを突き付けていた男は地に伏せる。男が拘束していたはずの、彼女自身の手によって。
* * *
「不機嫌だな、ファイツ。ボクが何かしたか?」
「……分かってる癖に」
場所は変わって、国際警察の地下訓練場。膝を抱えて床に座る彼女を見下ろして、ラクツは息をついた。あの後でクラスメート達に正体を明かしてからというもの、彼女は常に苛立っていた。
「……だって。皆、ラクツくんに付きまとうんだもん」
ファイツが零した言葉は、嫉妬から来るもの以外の何でもなかった。
「ボクも意外だった。ボク達は避けられると踏んでいたんだがな」
「そんなわけないじゃない……。あたしはともかく、ラクツくんを避ける子なんていないよ」
彼が女の子に囲まれることに興味がないと分かってはいるが、ファイツにとってはいい気分ではない。まして、彼女達は自分達の身分を知ってもなおラクツに近付くのだ。もうラクツから逃げる演技をしなくていいとはいえ、ファイツの苛立ちは募るばかりである。
「あたし……。強くなったと思ってたんだけどな……」
「……いや。お前は強くなった」
「…………」
無言のまま、ファイツは思わずラクツを見上げる。彼にそう呼ばれるのは初めてだったからだ。ラクツが”お前”と呼ぶのはフタチマルだけで、彼は少年に絶対的な信頼を置かれていた。
「今のファイツなら、あれくらいの男など簡単に制圧出来る。だからボクは、あの状況でも心配しなかった。ヒュウは終始キミを心配していたがな」
「……うん。ヒュウくんにはてっきり恨まれてると思ってたけど。曲がりなりにもプラズマ団だったあたしを心配するなんて……。優しいよね、ヒュウくん」
「ああ。ボクとは大違いだ」
「ラクツくんだって優しいわ」
「……どこが」
いくら訓練の為とはいえ、同い歳の少女をぼろぼろにした自分のどこが優しいというのか。ラクツの疑問に、ファイツは笑って返す。
「だって、あたしを見捨てないでくれたじゃない。それと……。正体がばれたのに、あたしを庇ってくれたし」
「当たり前だろう。部下の失敗は上司の責任だ」
ラクツとコンビを組むようになってから、ファイツはずっと彼の背中を追っていた。ラクツからすれば足手まといの自分はさぞ迷惑だったろう。しかし、彼は決して自分を見限らなかった。
(でも……)
ふう、と嘆息して、ファイツは言葉を続ける。
「あなたの前でこんなこと言うなんて、赦されないって分かってる。だけど……あたしは結局、あの頃のままなんだわ」
2人が出会ったのは今から6年前のことである。場所はまさにここ、国際警察の地下訓練場だった。天涯孤独の身だったファイツは国際警察の長官に拾われ、この場所で自分と同じ境遇の少年と出会ったのだ。
『あなた、だれ?』
『……キミには関係ないだろう』
初めて交わした会話がこれである。なんてそっけなくて冷たい子なんだろう。あの時そう感じたことも、彼の氷のような瞳も、彼の言葉で自分が大泣きしたことも、まるで昨日のことのように思い出せる。
「……ファイツが成長していないとは思わない」
ラクツは腕組みをしたまま返す。
「まあ、よく泣くところは相変わらずだがな。キミがプラズマ団に潜入すると決まった時、駄々を捏ねるキミを宥めすかすのに苦労した」
「……そ、それは仕方ないじゃない!だって、ラクツくんと離れるんだもん。あたし達、あの日からずっと一緒だったのに……」
母親がいなかった少女に、ある日”ママ”が出来た。身寄りのない自分を引き取ってくれた人物がいたという嬉しさより、ラクツと離れることがファイツは嫌だったのだ。ラクツは外から、ファイツは内からプラズマ団を壊滅させる。彼と再会出来るのは、上からの許可が下りた時。トレーナーズスクールの転校生として、ラクツに再び会える日を心待ちにしていた日々は……しかし過ぎ去ってみればあっという間だった。
(でも、びっくりしたなあ……)
ラクツがトレーナーズスクールに潜入したのは、プラズマ団の更なる情報を得る為である。プラズマ団の情報は多い方がいい。そしてもう1つ、マイクロチップを所持するファイツを護ること。彼女が国際警察官であることはプラズマ団員は知らないが、これも用心の為である。そして、学生寮があるトレーナーズスクールは彼女を日夜見守るには打ってつけの場所だった。
怪しまれないように数ヶ月遅れて潜り込んだファイツだが、そこでの彼は軽薄な男を装っており、おまけに自分は彼との繋がりを知られないように振る舞わなくてはならなかった。いくら今後の捜査に役立つからといっても、ラクツを嫌いな振りをするのは彼女にとって辛いことだった。おかげで演技力は大分向上したけれど。
「……6年、か。考えてみれば、人生の半分をキミと過ごしていることになるな」
「え……」
弾かれたように顔を上げる彼女を見て、ラクツは微笑んだ。
(……まったく、彼女は見ていて飽きないな)
ファイツは自分とは違って表情豊かである。沈んでいるかと思えば、今のようにすぐに顔を赤くさせるのだ。それは自分には到底出来ないことだった。
「……ラクツくん」
「……ん?」
「あのね、あたし……」
ファイツは幼馴染の名を呼んで、深く息を吸う。……そして。
「……あたしは、ラクツくんが好きだよ」
きっと、自分はフタチマルと同じくらい彼に信頼を置かれている。他人にも、自分を取り巻く環境にすらあまり興味を抱かないラクツ。けれどそれでも……自分は彼の一番近いところへいると思う。……そのくらいの自負は、ある。そんなファイツの告白を、ラクツは真正面から受け止めた。
「知っている。ボクもキミが好きだ」
ファイツの心に真っ先に浮かんだ感情は虚しさだった。
「……うん。あたしが、”妹”だから?」
ラクツとファイツは幼馴染で、大人びている少年はまるで兄のような存在である。出会った当初こそそう思っていたけれど、彼が初めて自分に笑顔を向けてくれた時に少女は自分の想いを自覚した。少女が少年と一緒にいる時に感じた暖かさは、家族に抱く感情ではなかったのだ。
「……ああ。……キミは、ボクの”妹”だから」
それきり黙り込んだラクツを見て、ファイツもまた押し黙る。心地いいはずの沈黙が、今は重かった。
(こんなに近くにいるのに……)
ラクツは自分を好きだと言ってくれた。けれど、ファイツの”好き”とはきっと違う”好き”なのだろう。ファイツは自分の”ママ”を思い浮かべた。例え血の繋がりがなくても”ママ”は自分の母親だ。彼女のこともファイツは好きだが、ラクツへの気持ちはそれとは似て非なるものだ。手を伸ばせばすぐに触れ合える距離にいるのに、心はこんなにも遠い。
(……好き)
心の中でもう一度彼に想いを告げる。この任務が終わるのは、アクロマを逮捕出来る程の証拠が集まった時だ。尽力したおかげで、その証拠は揃いつつあった。
(警察官としてあるまじきことだけど……。もう少し、この日々が続けばいいのに)
任を解かれたら、ラクツとはまた離れ離れになるかもしれない。未だに届かない想いを胸に抱いて、少女は目を伏せた。