da capo : 001
逮捕する者は地に伏せる
血に塗れた頬に、風が当たる感触がある。風がひっきりなしに鳴る音が、どこか遠くで響いている。今日はやけに風が強い日だと、地に伏せた身で思った。「…………」
赤い色をした体液が、視界の大部分を覆っている。茶色だったはずの地面を点々と染め上げている痕跡をどこか他人事のように眺めていたラクツは、呆れが混じった息を吐き出した。言うまでもなくその矛先は相棒たるフタチマルだ。
「……フタチ……マル。何を、して……いる?」
荒い息の下から途切れ途切れの言葉を紡いだ直後、ラクツは顔を顰めた。激しい痛みに襲われたのだ。感情を理解出来ない身なれど、それでもラクツは人間だった。消えてはくれない痛覚を全身で味わいながら、どうせなら痛覚も感じ取れない身体であれば良かったのに、と靄がかかった頭で思考する。そうすれば、あの犯罪者を。次期プラズマ団の長を自称するアクロマを、この身で追うことも出来ただろうに。
(……いや。例えやつを追えたとしても、この状態では足手まといになるだけか……)
我ながら随分と未練がましいものだと、唇の端を吊り上げて自嘲した。そうなのだ。自分はアクロマに敗北したのだ。別に油断していたわけではなかった。自分の実力に慢心していたわけでもなかった。更には防御スーツの耐久性を過信していたわけでもなかった。国際警察を解雇されたラクツはそれでも教えの通りに犯罪者を捕らえるべく普段通りに戦って、そして負けたのだ。アクロマが使役していた赤いゲノセクトが放った”はかいこうせん”をその身に受けたことが直接の敗因だった。厳しい訓練で鍛えていたとはいえ、防御スーツを貫く程の衝撃に生身の肉体が耐えられるはずもなく。結果としてラクツは、無様にも地に伏せることになった。地面に叩き付けられた衝撃で、何より全身を襲う痛みで、自分は敗北したのだと一瞬で悟った。
ちなみにそのアクロマは、この場からとうに離れている。地面に横たわった自分を放置したところからすると、止めを刺す時間すら惜しかったのだろうか。もしくは妙に馴れ馴れしかったところからしてこちらに情けでもかけたのかもしれないとラクツは思った。どのような思考の果てにその結論に至ったのかは知らないが、仮に情けをかけたのなら無意味なことだ。
(ボクは、まもなく死ぬ)
ラクツは胸中でそう呟いた。自分がまもなく死を迎えるであろうことは、覆しようのない事実だった。あの”はかいこうせん”を身体で受けて分かった。あれは、人間に致命傷を与えるには充分過ぎる程の威力を有している。何しろ最先端技術の粋を集めて作られた防御スーツを貫く程の一撃だったのだから、そもそも命中した時点で終わりだろう。まして自分は真正面から受けたのだから、死にかけの人間を放置したアクロマの判断はある意味では合理的だとも言えた。詰めが甘いと言えなくもないが、あの”はかいこうせん”の威力と速度を熟知していたからこそ、やつだってわざわざ止めを刺さなかったのだろう。
そんなことを考えていたラクツは、フタチマルがこの場に留まっていることに気付いてまたしても顔を顰めた。警察という組織に所属している身でありながら、自分とコンビを組んでいる身でありながら、それでもなおフタチマルはこの場に留まっていたのだ。その事実に心には不快感が募る。基本的に感情が理解出来ないものの、不快という感情はきちんと分かるのだから不思議なものだ。やはり他人事のようにそう思ったラクツは、神妙な顔付きで自分を覗き込んでいるフタチマルに対して非難の目線を送った。ついでに辛うじて動く指先で”任務を遂行しろ、アクロマを追え”とサインを送ってやる。
しかしそれでも、彼は動かなかった。フタチマルはつぶらな瞳を細めて、嫌だとばかりにしきりに首を横に振っていた。首を傾げるのではなく横に振っていることからしても、こちらの意図が伝わっていることは明らかだ。それなのにアクロマを追いかけた他の手持ちポケモン達に倣うでもなく、縫い付けられたようにこの場に留まり続けているフタチマルを見据えていたラクツは、長く息を吐き出した。その拍子に、口から血が流れ落ちる。大方折れた肋骨が刺さったかもしくは潰れている所為で呼吸がし辛いのだろうなと、どこまでも他人事で思考する。襲い来る痛みと苦しさに顔を歪めたラクツだったが、肺が損傷した息苦しさとは関係なく呼吸が止まった。フタチマルが、つぶらな瞳から止めどなく涙を零していたのだ。ラクツにとって、それは初めての光景だった。間違いなく最初で最後の、フタチマルの落涙だ。
「…………」
フタチマルは、自分が初めて深く関わったポケモンだった。この身だけで任務を遂行すると決めていた自分の意志を、呆気なく翻させたポケモンだった。フタチマルと過ごした日々が蘇って来て、ラクツは無意識に口角を上げた。そうだった。彼は、自分が最も深く関わったポケモンなのだ。この際特別扱いをしてもいいだろう。それに、と思う。どの道自分はもう長くはない身なのだ。片方が死んだら必然的にコンビ解消になるわけなのだし、相棒たるフタチマルの好きにさせてやるべきだろう。
「もう、いい……。好きに……しろ……」
これでも、手持ちポケモンへの情は持ち合わせている。その自覚はある。とうとう根負けしたラクツがそう告げると、フタチマルは頷いた。ともすれば幼子のように、こくんこくんと何度も何度も頷いた。その様子がどうしてか”誰か”に重なって見えて、ラクツは思わず首を傾げた。こんな時なのにどうしてあの娘の、プラズマ団の少女の顔が浮かぶのだろうか?フタチマルならともかく、別に自分とあの娘の間には深い絆があるわけでもないだろうに。
(……いや。思考したところで意味のないこと、か……)
思わず思考したラクツだったが、数秒後にはそう結論付けていた。そう、死にゆく自分には最早意味のないことなのだ。はっきりと分かる、死神の足音がすぐそこまで迫っているのが聞こえる。視界だってぼやけている。声だって、もう出せそうになかった。とうとうその時がやって来たらしいなと、ラクツは最後まで他人事のように思った。
自分が死ぬのだということが分かっても、動揺はなかった。どうせ人間皆死ぬのだ。自分の順番が今だった、というだけのことだ。生にしがみ付こうと悪あがきをする気は欠片も湧かなかった。むしろ、自分は長生きした方だとすら思っているくらいだ。嬰児の頃に長官に拾われたおかげで、12年間生きることが出来たのだから。そんなわけで死の運命を静かに受け入れていたラクツだったが、内心で小さく息を吐いた。死ぬことについて今更動揺はない、精神に乱れはない、恐怖は元から分からない。だけどそれでも、一抹の後悔はあった。出来ることなら無様に野垂れ死ぬのではなく、誇り高く死にたかった。警察官として、最期まで任務をまっとうしたかった。それが叶わないであろうことだけが、心残りだ。
(……?)
そんな時だった。ラクツの視界が、突如として緑色の光で覆われた。意識が急速に薄くなっていく中であれは何だろうと訝しむ。目が最早機能しない所為でよく見えなかったが、あの光源は自然現象かもしくは何かのポケモンといったところだろうか。そう思ったラクツは、口角を上げた。この世の見納めが光というのは悪くないと思ったのだ。そこで限界が訪れたラクツは、死の運命に逆らわずに目を閉じた。