short novel
それは、運命の悪戯か
パチパチと、炎が燃える音がする。実に心地いい音だと思いながら、ゾフィスは炎の中で燃えている物体を見て嗤った。今まさに燃え尽きようとしているのは、魔物の力が閉じ込められた本だった。旅の途中で偶然にも出くわした相手は、風の能力を持つ魔物だった。勝負はものの数秒で終わった。自分の本の持ち主が唱えたラドムが、緑色の本に一発。それでお終いだった。
(……これで、私はまた王へと一歩近付いたというわけですか)
悪くない気分だった。いや、正直なところ、呆気なさ過ぎる終わり方をしたことに肩透かしを食らったというのが本音だった。もっと抵抗してくれなければ面白みがない、あれでは倒し甲斐がなさ過ぎるではないか。
目の前で魔界に帰った風の魔物は、愚かな魔物だった。こちらが爆発の術を使うと分かっていただろうに、風の術を、それも低レべルの風の術を使うような愚かしい魔物だった。そんな魔物は、本の持ち主まで愚かだった。至極残念なことに、魔物の王を決める戦いでは人間の協力がなければ術が使えないルールだ。それなのに術の応酬が始まって幾ばくもしないうちに、敵の本の持ち主は魔物を見捨てて逃げ出したのだ。
愚かな魔物に相応しい幕切れとはこのことだと、ゾフィスは唇の端をつり上げた。愚かにも程がある魔物だったが故に、愚かな本の持ち主と巡り合ったのだろうか。そう思うと、自分が倒した魔物にいっそ哀れみすら感じる程だった。
(おっと……。私らしくありませんね)
本が完全に燃え尽きたところで、ゾフィスは我に返った。ほんの一時とはいえ敵の魔物に同情するなんてどうかしている。正直言って呆気なさ過ぎる終わり方だったとは思う。しかしそれでも、自分が勝ったことに変わりはない。過程はどうあれ、勝った者が強いのだ。ゾフィスは勝利の余韻に浸っていた。
「ゾフィス!」
高揚感に浸っていたゾフィスは、その声でゆっくりと振り返った。ここから離れた岩陰に隠れていたはずの本の持ち主が、こちらに向かって全速力で駆けて来るのが見えた。その人物は、濃い赤紫色の本をしっかりと持っている。
「……ココ」
ゾフィスは呆れ混じりに本の持ち主である人間の名を口にした。この場に敵がいないからいいようなものの、周囲の確認もせずに飛び出して来るのはいただけない。はあっと嘆息したゾフィスは、こちらに向かって走るココを見つめた。その動きに合わせて、彼女がお守り代わりにつけているイヤリングが揺れていた。
「ゾフィス……!大丈夫なの!?」
ようやくたどり着いたココは、見るからに息を切らしていた。おまけに敵が放った術の余波に巻き込まれでもしたのか、紫色の質素な服はところどころ裂けていたし、顔には幾筋もの深い切り傷が出来ていた。不用意に顔を出すからこうなるのだと、ゾフィスはその光景に眉を潜めた。
「……あ、これ?大丈夫よ、ちょっと切っただけだもの。大したことないわ」
こちらの視線に気付いたココは、何でもないことのようにそう返した。虚勢でも何でもなく、心の底からそう思っている口振りだった。
「……”ちょっと”ではないレベルの切り傷ですがね。どうせまた、私の指示に背いて顔を出したのでしょう?」
「え、ええ……」
素直に頷いた後で「だってゾフィスが心配だったんだもの」という言葉を付け加えたココに、ゾフィスはまたもや溜息をついた。負傷に対して臆する様子がないのは大いに結構だが、それで気を失われでもしたら待っているのは魔界に強制送還されるという未来なのだ。確かに、敵対した魔物の術は大したことがなかった。しかし、魔物の術は下級でも人間にとっては充分脅威になるわけで。この程度で済んだのは、ただ運が良かっただけなのだ。
「……でも。本は無事よ?ちゃんと守ったわ」
「当然です。そうしてもらわなければ困ります」
ゾフィスは淡々と返したが、内心ではほくそ笑んでいた。満足のいく答だったのだ。ココという名前の自分の本の持ち主は、体力もないし、色々と迂闊だった。おまけに争いには欠片も興味を示さないような、心優しい人間だった。彼女を一目見た瞬間に、ゾフィスはこう思ったのだ。”この人間は様々な意味で自分とは真逆だ”、と。そして、彼女の性格がこの戦いにはまるで向かないであろうことも悟った。あの時下した評価は、今でも間違っていないと思っている。
魔界の王を決める戦いには不向きにも程がある性格をしているこの人間を力ずくで従わせる手もあった。あるいは、洗脳するという手もあった。しかしゾフィスは、結果的にはそのどちらでもない方法を選んだ。つまりは脅して従わせるのでもなく、脳をいじって自分に相応しい邪悪な人格を作り上げるのでもなく。何度か対話を重ねて、ココ自らの意思で戦いに臨むように説得したのだ。
その結果がこれだった。ココは体力は低いしおっちょこちょいだし優し過ぎるし、人間や建物やらを無闇に爆破するのを嫌がるわで、自身に見合う本の持ち主だとはお世辞にも言えなかった。しかしそれでも、ココの戦いに対しての姿勢は本気そのものだった。覚悟を決めたからなのか、それとも元から肝が据わっていたのか、ここ一番でのココが持つ本の輝きはゾフィスをして目を見張るものがあった。魔物の術から自分の身ではなく本を庇うところも、基本的に人間を見下している魔物としても好印象を抱かざるを得なかった。それに人間にしてはかなり根性もあるようだし、何よりも心の力がすごいしで、パートナーとしてぎりぎり及第点を出してもいいかもしれないとゾフィスは思った。
少なくとも、ココは愚かではなかった。勤勉な性格をしている彼女に勉強を教えて欲しいと頼まれることは時々あるが、それでもココが愚かな人間であるとはとても思えなかった。例え魔物に狙われたとしても、彼女なら逃げずに呪文を唱えるに違いない。そんな確信がゾフィスにはあった。魔物を見捨てて真っ先に逃げ出した人間がいる一方で、魔物を心配して駆け寄る人間もいるのだ。その一点だけでも本の持ち主として雲泥の差ではないか。理想は進んで悪事に手を染める人間や、もしくは好戦的である人間が本の持ち主であることだった。しかし今となっては、ココの戦いに対する姿勢と優し過ぎる部分を取り除いた彼女の精神性を、ゾフィスは悪くないと思うようになっていた。認めるのは何となく癪だが、ほんの少し彼女に絆されたと言ってもいいかもしれない。
「あ。見て、ゾフィス。花が咲いてるわ。綺麗な花ね、燃えなくて良かった……!」
「ただの花でしょう。特別綺麗だとは思いませんよ」
「もう!ゾフィスったら、いじわるなんだから……。少しくらいそう思ってくれてもいいじゃない?」
「あなたがもう少し注意深くなったら考えておく、とだけ言っておきましょうか。……それより、早く行きますよ。この辺りは魔物の気配は感じられませんから」
このままだといつまでも花を愛でていそうだと思ったゾフィスは、ココを残して歩き出した。思った通り、そんな自分の後をココが慌てて追いかけて来る。それを気配で感じ取ったゾフィスは振り返った。どこか器用に花を避けて走るココは、出会った頃の心優しい彼女そのものだった。仮に邪悪な彼女を作り出していたら、花など目もくれずに踏みつけていたに違いない。ゾフィスは根拠もなくそう思った。
どうして彼女を説得したのか、どうしてそんな回りくどいことをしたのか、ゾフィスは時々疑問に思う。自分で決めたことなのに、洗脳や魔力に頼らなかったことをどうしてなのかと不思議に思う。単に気まぐれなのかもしれないし、あるいは人間如きに魔力を使うというのは自分のプライドが許さなかったのかもしれない。その理由は自分でも分からないけれど、ココが自らの意思で戦いに臨んでいるのだから別にいいかとゾフィスは思った。大事なのは結果なのだ。ココが自らの意思で本を開いて、自らの意思で呪文を唱えている。だから、それでいいとゾフィスは思った。
「……ゾフィス?どうしたの?」
「……いえ。考え事をしていただけです」
「シェリーのこと?」
「それはあなたの方……まあいいでしょう。ココ、一応念を押しておきましょうか。ミス・シェリーを連れ去った魔物はあのブラゴです。重力の術を使う強大な魔物です。悔しいですが、私1人だけで勝てる相手ではありません。ココ、親友を取り戻したければ……」
「分かってるわ。私が頑張れば、それだけ早くシェリーを取り戻せるんでしょう?」
「ええ、その通りです。呪文を唱える際に込める感情の度合いで、術の威力も変わって来ますからね」
争いや力にまったく興味を示さなかったココが、自らの意思でこの戦いに身を投じたのには理由がある。今から数ヶ月前のことだ。中々首を縦に振らないココを今日も今日とて説得しようとしたゾフィスだったが、顔を見るなり首を横に振っていた彼女はその日に限っていつもと違う反応をした。「お願いだからシェリーを助けて」と、涙ながらに頼まれたのだ。聞けば、大親友である名家のお嬢様がある日突然行方不明になったらしい。何でも、ドレスを身にまとった金髪の若い娘が攫われたという目撃情報まであるのだとか。ココにせがまれてベルモンド家まで出向いたゾフィスは、呆然と立ち尽くす彼女に向けて「魔物の仕業です」と言った。ココをこれ幸いと従わせる為についた嘘ではなかった。お嬢様の住まいであったであろう豪華な屋敷は無残にも倒壊していたし、鉄で出来た門は上から押し潰されたような形になっていたし、救急車で搬送し切れない程の怪我人がそこら中に倒れていたし、何より現場からは魔力が感じられたからだ。
彼女も本の持ち主に選ばれたのでしょうと言ったら、ココは目を見開いた。彼女を連れ去ったであろう魔物に心当たりがありますと言ったら、ココは本当かと問いかけて来た。私の本の持ち主になってくれれば彼女を探す手伝いをしてさしあげますよと言ったら、ココはこくんと頷いた。手を差し出してみたら、震える手で握り返された。その力は、実に人間らしいひ弱なものだった。
「私、頑張るわ!頑張って、シェリーを魔物から早く解放してあげるんだから!……宿を取ったら、早速術の特訓をしなくちゃね!」
ひ弱なココが、気合を入れるかのように拳を握った。どうやら親友の名前を口に出したことで俄然やる気が出たらしい。いい兆候だとゾフィスは思った。術の特訓とはいっても、ココの性格上人の気配がない場所で動かない岩にラドムを延々と当てるだけで終わるのだろう。それでも、せっかくのやる気を削ぐことはない。少なくとも、今までのように人助けや勉強を教えることで戦いへのやる気を出されるよりは遥かにマシだと言えるだろう。
「一緒に頑張りましょう、ゾフィス。これからの戦いでも、精一杯呪文を唱えるから!」
「当然です。むしろそれくらいしてもらわなければ私が困りますよ。あなたは、私の……。……そう、パートナーなのですから」
そう告げると、ココは嬉しそうに笑った。言わないけれど、花が咲いたような綺麗な微笑みだとゾフィスは思った。宿を取るより前にまずは傷の手当てと、ついでにそのぼろぼろの服を取り替えなさい。いつの間にやら自分を追い越して手招きをするココに向かって呆れ混じりに呟いたゾフィスは、それでも悪くない気分でパートナーである人間の後を追った。